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回向を首として大悲心を成就する [『教行信証』「信巻」を読む(その135)]

(6)回向を首として大悲心を成就する

第十八願成就文の後、『論註』から引かれます。

『浄土論』(実は『論註』)にいはく、「〈いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することをえたまへるがゆゑに〉とのたまへり。回向に二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相といふは、かの土に生じをはりて、奢摩他毗婆舎那(しゃまたびばしゃな、奢摩他は止、すなわち禅定。毗婆舎那は観、すなわち正見)・方便力成就することを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向(かえ)らしめたまふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにとのたまへり。このゆへに〈回向為首得成就大悲心故(回向を首として大悲心を成就することをえたまへるがゆゑに)〉とのたまへりと。以上

この文もまたすでに「行巻」に引用されています。そこではこの文の前半の往相までですが、ここでは後半の還相についての部分も引かれています。もう記憶が薄らいでいますから、少しおさらいしておきましょう。『浄土論』は前半の「願生偈」で弥陀の浄土を讃嘆しながらそこへの願生の思いを詠い、後半の「長行(ちょうごう、散文部分)」でその「願生偈」をみずから解説します。そして「長行」のはじめに、浄土に往生するには礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五行(五念門)を修することが必要であると述べられ、それぞれについて簡単な説明がつけられているのですが、ここに引かれているのは、その回向門に関する部分の曇鸞の注釈です。

最初の「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することをえたまへるがゆゑに」という一文は、天親が回向とは何かについて述べているものです。さてしかしこれまた親鸞独自の読みで、普通に読みますと「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」となります。天親としては「われら」が浄土往生を実現するためになす行の一つとして回向があるのですが、親鸞はその主語を「法蔵菩薩」として文全体をごろっと読み替えてしまうのです。


タグ:親鸞を読む
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