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中動態の世界 [『ふりむけば他力』(その9)]

(4)中動態の世界

 「能動vs受動」が「するvsされる」であるのに対して、「能動vs中動」は「そとvsなか」であるとされますが、これは実に示唆的です。
 能動が「そと」であるといいますのは、行為はその主体である「わたし」から出発して、「わたし」の「そと」で成し遂げられるということです。「わたし」がある行為を決定し、それは「わたし」の「そと」で「わたし」のコントロール下で為されるということです。一方、中動が「なか」というのは、「わたし」はいま起っているある事態の「なか」にあり、それは「わたし」がしているには違いありませんが、しかし「わたし」がそれを決定したわけではなく、「わたし」はその事態に巻き込まれているということです。先に上げた「惚れる」でいいますと、確かに「わたし」が誰かに惚れるのですが、しかし「わたし」がそう決意して惚れたわけではなく、気がついたらすでに“fall in love”という事態に巻き込まれていたということです。
 いまや中動態は姿を消してしまい、能動態か、さもなければ受動態かになってしまっているのですが、能動でも受動でもない中動という事態そのものがなくなってしまったわけではありません。しかしそれをあらわす中動態がなくなってしまったことにより、われらはものごとを能動か、さもなければ受動かという目で見るしかなくなります。われらはことばという眼鏡を通してしかものごとを見ることができませんから、ものごとはすべて能動か、さもなければ受動かとなり、能動でも受動もない、あるいは能動でもあり受動でもあるという見方ができにくくなったということです。そのことにより具体的にどのような問題が現れてきたでしょうか。
 たとえば自己責任ということばがあります。いつ頃からでしょう、新自由主義ということばとともにこの自己責任ということばがよくつかわれるようになりました。「それはお前さんの自己責任だから、他人のせいにせずに自分で決着をつけなさい」などというように言われます。何ごとにせよ、自分でそうしようと思ってしたのだから、そのことの責任は自分にあるということで、ものごとは能動(する)か受動(される)かのどちらかであり、能動でも受動でもない、あるいは能動でも受動でもあるような事態は排除されてしまうのです。この見方はしかし何とも窮屈で息苦しいと言わなければなりません。われらのしていることの多くは能動ではあるが、しかし同時に受動でもあるという中動の様相をもっているのですから。

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