SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その56) ブログトップ

三心一心問答 [はじめての『尊号真像銘文』(その56)]

(3)三心一心問答

 さてでは親鸞はこの問いにどう答えているのでしょう。まず「至心・信楽・欲生」の三心について、その字訓釈を施します。文字の一つひとつの意味を探っていくのです(親鸞得意の手法です)。
 その途中経過を省略して結論だけを言いますと、「いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮まじはることなし。…まことに知んぬ、疑蓋間雑(ぎがいけんぞう、疑いがまじわる)なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり。一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主、はじめに一心といへる」となります。多少ごちゃごちゃした印象を受けますが、要するに親鸞が言いたいのは、至心といい、信楽といい、欲生といっても、その文字の意味からしてみな偽りのまじらない真実の信心のことだから、天親はこれをひとつにして一心と言ったのだ、ということです。
 さあこれで終わりかと思いきや、今度は逆に、三心が一心におさまるのなら、どうして第18願では三心を立てているのだろうかと問い、ここからこの問答の核心部分がはじまるのです(仏意釈といいます)。
 親鸞は「仏意測りがたし」と言いながら、「ひそかにその心を推するに」として、次のように論を展開していきます。まず「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」と言います。だからこそ阿弥陀仏は至心と信楽と欲生のそれぞれを「諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施(えせ)したまへり」と言うのです。このように至心・信楽・欲生はみな如来から回施されたものですから、「三心すでに疑蓋まじわることなし」という結論になります。そしてこう締めくくるのです、「ゆゑに真実の一心なり、これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。…このゆゑに論主、はじめに我一心とのたまへり」と。
 字訓釈によっても仏意釈によっても、三心はみな疑いのまじることのない真実の信心であることが明らかとなり、かくして「一心といふは、教主世尊の御ことのりをふたごころなくうたがひなしとなり。すなわちこれまことの信心也」となるわけです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その56) ブログトップ