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ただ念仏するもののみありて [「信巻を読む(2)」その64]

(6)ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る

『往生礼讃』の二つ目の「相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る」は、『観経』「真身観」の「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という経文を下敷きにしており、弥陀の光明は十方世界を隈なく照らすが、しかしその光に摂取されるのは念仏の衆生のみであるということです。次の『観念法門』の「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護(しょうご)して捨てたまはず。すべて余の雑業(ぞうごう)の行者を照し摂(おさ)むと論ぜず」はそのことをもっとはっきり言っています。「ただ念仏するもののみありて」、同じことですが「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて」弥陀の心光は摂取するというのです。

この「念仏する」とか「阿弥陀仏を専念する」とは、ただ単に南無阿弥陀仏と口にするだけではなく、そこに本願の信受がなければならないことは言うまでもありませんが、さてしかし本願を信じ念仏を申すもののみが摂取されるという言い回しに引っかかりを感じないでしょうか。たとえば『歎異抄』第12章には「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」とありますから、信心の人、念仏の人が救われるというのは当たり前のこととも言えますが、しかし「これこれをするもののみ」という言い方には何か排他的な匂いがします。キリスト教においても、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」(「マタイ伝」7章)と言われますが、ここにも同じ匂いがします。

「これこれをすれば、そのもののみが救われる」という言い回しからは「これこれをすること」が救いの条件になっているような印象を受けます。逆に言えば、これこれをしないものは救われないとなり、ある人たちだけが救いの柵のなかに入れてもらえて、その他の人は救いから締め出されることにならないでしょうか。宗教というものはそういうものだと言えばそれまでですが、これまで歴史のなかで繰り返されてきた宗教戦争のもとがこの排他性にあるとすればことは重大です。さて救いには条件があり、それをクリアすれば救われるのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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