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薬あり毒を好め [『観無量寿経』精読(その89)]

(10)薬あり毒を好め

 さあここには微妙な問題があります。すぐ前のところで見ましたように、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」ですから、「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」(『歎異抄』第1章)です。そこからどんな悪も「いかにもこころのままにてあるべし」という考えが出てきても不思議ではないように思えます。しかし親鸞はその考えは「薬あり毒を好め」というようなもので、とんでもない間違いであると言います。このように、一方では「悪をもおそるべからず」と言い、他方では「いい薬があるからといって思うままに毒を好んではならぬ」と言う。これをどう解きほぐせばいいのでしょう。
 善導にもどりますと、「唯除五逆誹謗正法」は重罪を抑止しているのであり、罪人を摂取しないのではないと述べた後、では下品下生で五逆だけが摂取され誹謗正法が触れられていないのは何故かと問い、こう答えています、「それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。…しかるに謗法の罪は、いまだ為(つく)らざれば、また止めて、もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じとのたまふ」と。すなわち五逆は已造業であるから摂取し、謗法は未造業であるから抑止されるのだということです。すでになされてしまった罪は、それがどれほど深重であろうと赦されるが、これからなそうとする罪はおのずから抑止されるというのです。
 この微妙な消息をもう少し探ってみたいと思います。
 まず、すでになされたことは、その罪がどれほど重いものであっても(五逆や謗法であっても)赦されるということ。ここに浄土教の、いや、仏教のもっとも深い思想が宿っていると言えます。親鸞はそれをこう表現します、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」(『歎異抄』第13章)と。たとえどんな些細な罪であれ、あるいは百人・千人を殺すというとんでもない重罪であれ、みな宿業によるのであり、その人の責に帰せられるものではないというのです(法的・倫理的な責はまた別です)。宿業をもっと広い文脈で縁起ということばに置き換えますと、すべてなされたことは縁起(さまざまな要因の縦横無尽のつながり)のなかで起ったと言うことができます。

タグ:親鸞を読む
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