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真は仏にのみ [『唯信鈔文意』を読む(その144)]

(6)真は仏にのみ

 「真か偽か」と相手に突き付ける人は、自らを真の側に置きますが(「善か悪か」も同じで、こう問う人は自分を善の側に置いています)、「真か化か」と問う人は、自らも化の側におくのではないでしょうか。雑修の人に「お前さんは真ではない」と言いつつ、「自分も真とはいえないが」とつけ加えざるをえないところがあると思うのです。
 真は仏にのみあると。
 有名なエピソードを思い出しました。親鸞が流罪の地・越後から常陸に向かう途中で、何か不幸な出来事に出会ったのでしょうか、浄土三部経を千部読誦しようと思い立つのです。しかし「みやうがうのほかには、なにごとの、ふそくにて」と思い返してやめたという話が妻の恵信尼から伝えられています。
 自分はもうすでに本願に遇うことができ、名号を聞かせてもらったと思っていても、つい読経して供養しようという以前の僧としての顔が出てしまうことに驚き、自分に真があるなどとは言えないと思い知ったのではないでしょうか。
 これは信仰の場面だけでなく、もっと普段の日常の中で生かせると思います。ぼくらはともすると「正義はわれにあり」として相手の非を糾弾しがちです。しかし、彼我が対立するとき、我が全面的に正しく、彼が全面的に間違っているというケースは稀ではないでしょうか。
 クイズのようにイエスかノーかで答えられる単純な問いについてならともかく、ぼくらが生活の中で問わなければならない複雑な問い、たとえば子どもの教育の問題や、あるいはそのときどきの政治上の問題については、「真はわれにあり」とするよりも、「どちらも化」として話し合う方が実り多いと思うのです。

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