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「痛い!」を絵にすると [生きる意味(その45)]

(16)「痛い!」を絵にすると
 「痛い!」と言う時、「ぼくが」という主語がないということは、痛みには人称がないことです。大急ぎで付け加えますが、もちろん「痛い!」のはぼくであって、あなたではありません。でも「痛い!」という出来事の中のどこにもぼくはいません。ではぼくはどこにいるのか。「痛い!」という出来事がそこで起こる<場>としているだけです。
 「ぼくはワープロのキーボードを叩いている」の「ぼく」は出来事のただ中にいます。前章で「われ思う」を絵にしてみましたが、ここでも同じ手を使って、「ぼくはワープロのキーボードを叩いている」を絵にしてみましょう。その絵の中にぼくが登場するのは言うまでもないことです。
 しかし「痛い!」を絵に描こうとしますと…、さてどうなるでしょう。さしずめ画面いっぱいに大きくて黒い星を描き、その星の中に「痛い!」という文字を入れるのではないでしょうか。その絵の中にぼくが登場することはありません。
 ですから、その絵をどれほど見つめても誰が「痛い!」のかは分かりません。「痛い!」のがぼくだということは、その絵の外で表現するしかないのです。例えば、もう一枚の絵でぼくが歩いている場面を描き、それに続けて先ほどの星の絵を見せることではじめてぼくが「痛い!」のだということを表せるでしょう。
 そんな面倒なことをしないで、ぼくが左膝の辺りを抱えながら顔をしかめている絵を描けばいいじゃないかと言われるかもしれませんが、その絵は「ぼくの左膝に激痛が走った」を表しても、「痛い!」を表しているとは言えません。

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