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諸仏の証誠護念 [『阿弥陀経』精読(その26)]

(7)諸仏の証誠護念

 東南西北と上下あわせて六方の世界の諸仏が阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎し、また念仏の教えを護念してくださることが説かれます。すべて同じ言い回しですから、東方の諸仏について述べた後、南西北方および上下方みな同じとして済ますこともできると思うのですが、律儀にそれぞれの世界の諸仏の名を出し、同じ証誠護念のことばをくり返しています。そこに『阿弥陀経』の特徴があるということもできるでしょう。釈迦がこの経のなかで「舎利弗、舎利弗」と繰り返し呼びかけるのと同じ味わいが感じられます。
 さてここで証誠護念をする諸仏というのは、親鸞にとって、われらに本願念仏の教えを伝えてくださる人たちのことです。七高僧をはじめとする「よきひと(師主知識)」たちをさすと考えられます。六方の世界に諸仏がましまし、弥陀の本願を証誠し、念仏の教えを護念してくださるということは、どこにおいても必ず「よきひと」たちがおられて、われらに本願念仏を伝えてくださるということです。ここで是非とも確認しておきたいと思いますのは、弥陀の本願に遇うと言い、名号を聞くと言いますが、それはあくまでも「よきひと」を通してであるということです。
 キリスト教やイスラム教などの一神教の場合は、神から直接はたらきかけがあるのかもしれませんが(パウロが聞いた不思議な声、「サウロ(パウロのユダヤ名)、サウロ、何ぞわれを迫害するか」は主イエスから直接届いたものです)、浄土教の場合は、阿弥陀仏がわれらに直に声をかけたり、光を放ったりすることはありません。あくまでも「よきひと」のことばを通して、そのなかから弥陀の声を聞くのであり、「よきひと」のからだを通して、そのなかから弥陀の光に遇うのです。親鸞は法然のことばを通して、そのなかから弥陀の招喚の声を聞き、法然のからだを通して、そのなかに弥陀の光明を仰いだように。
 講座でこの話をしましたら、ある方から「阿弥陀仏から直に声が届いたり、光がやってくることはないのでしょうか」という質問が出ました。これは質問というより、自分自身にそのような経験があるのだが、ということでしょうが、これに対して、ぼくにはそのような経験がありませんとしか答えられません。ただ、そのような経験について誰かから「それは幻聴や幻覚とどう違うのですか」と問いかけられたら、どのように答えられるのだろうとは思います。こんなことを言いますのは、ぼく自身が同じような問いかけを受けたことがあるからです。

タグ:親鸞を読む
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