SSブログ
親鸞の手紙を読む(その46) ブログトップ

義なきを義とす [親鸞の手紙を読む(その46)]

(5)義なきを義とす

 それにしても、「およそ行者のはからひのなきをもつて」とか「すべて、ひとのはじめてはからはざるなり」とか「もとより行者のはからひにあらずして」とか、しつこいほど「行者のはからひ」のないことが強調され、それは「義なきを義とす」という法然のことばに集約されます。そうしたことばを読みますと、そうか、「如来のちかひ」に遇うことができたら、もう何もしようとは思わず、ただひたすら「如来のちかひ」にお任せしていればいいのだ、という感じになってしまいます。人生の舞台から下りて、ひねもす南無阿弥陀仏を称えてすごす隠遁者のようなイメージです。
 しかしこれが正定聚不退の姿でしょうか。蓮如の「おふみ」を読みますと、本願の信心を得ることができればもう人生でなすべきことが終わってしまい、あとはめでたく臨終を迎えるのを待つだけという印象がつよく、信心を得てから臨終までの人生がすっぽり抜け落ちてしまっているように感じることがよくあります。正定聚不退になってからの存在感がきわめて希薄に感じられるのです。これが信心のひとのほんとうの姿でしょうか。このような印象をもたらすもとは、またもや「如来のちかひ」(他力)と「行者のはからひ」(自力)の関係にあると言わざるをえません。
 この両者は真っ向から対立します。「如来のちかひ」のあるところ「行者のはからひ」の入る余地がありませんし、「行者のはからひ」のあるところ「如来のちかひ」の入る余地がありません。しかし同時に、繰り返しになりますが、「如来のちかひ」の気づきと「行者のはからひ」の気づきはひとつなのです。「如来のちかひ」の気づきがあるところ、そこにはかならず「行者のはからひ」の気づきがあり、また「行者のはからひ」の気づきがあるところ、かならず「如来のちかひ」の気づきがあります。
 その意味では、「如来のちかひ」に気づいたからといって「行者のはからひ」がなくなるのではなく、むしろ「行者のはからひ」が「行者のはからひ」としてはっきり自覚されるのです。これは「行者のはからひ」であると自覚しながら、死ぬまで「行者のはからひ」をしつづけるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の手紙を読む(その46) ブログトップ