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十念といふは [「信巻を読む(2)」その140]

(6)十念といふは

さらに問答はつづきます。今度は「十念」についてです。

問うていはく、いくばくの時をか名づけて一念とするやと。

答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす。このなかに念といふは、この時節を取らざるなり(ここで言う念はこのような時間の意味ではない)。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相(仏の全身の相)もしは別相(仏の部分の相)、所観の縁に随ひて心に他想なくして(他の想いをまじえずに)十念相続するを名づけて十念とすといふなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとしと。

問うていはく、心もし他縁せば(心が他のことに移れば)、これを摂(せっ)して還らしめて(心を元に戻すことから)念の多少を知るべし。ただし多少を知らば、また間(ひま)なきにあらず。もし心を凝らし想(おもい)を注(とど)めば、またなにによりてか念の多少を記することを得べきやと。

答へていはく、『経』(観経)に十念といふは、業事成弁(ごうじじょうべん、往生が成就すること)を明かすならくのみ。かならずしも、すべからく頭数(ずしゅ、回数)を知るべからざるなり。〈蟪蛄(けいこ、ひぐらし蝉)春秋を識らず、伊虫(この虫)あに朱陽の節(夏)を知らんや〉といふがごとし。知るものこれをいふならくのみ。十念業成(じゅうねんごうじょう、十念で往生が成就すること)とは、これまた神(じん)に通ずるもの(神通力のある仏)これをいふならくのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざれば、すなは罷(や)みぬ(それでよいのである)。またなんぞ仮に念の頭数を知ることを須(もち)ゐんや。もしかならず知ることを須ゐば、また方便あり。かならず口授(くじゅ)を須ゐよ、これを筆点に題する(筆で書き記す)ことを得ざれ」と。以上

たったの十念で往生できると言うが、十念とはどれくらいの時間かと問い、それは時間の長さでも回数でもないと答えます。


タグ:親鸞を読む
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