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外儀のすがたはひとごとに [親鸞の和讃に親しむ(その112)]

(2)外儀のすがたはひとごとに

外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋・邪偽おほきゆゑ 奸詐(かんさ、いつわりあざむくこと)ももはし(百端、数が多いこと)身にみてり(第95首)

そとの見かけをかざりつけ よきひとらしく装って なかは貪瞋みちみちて うそいつわりがあふれてる

この和讃のもとは善導『観経疏』の次の文です、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性やめがたし」と。その前半の漢文は「外現賢善精進之相内懐虚仮」で、これを普通に読みますと、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」となりますが、親鸞は上記のように読むのです。普通の読みでは「内に虚仮を懐くでないぞ」と諭していますが、親鸞は「内は虚仮ばかりで、貪瞋・邪偽・奸詐百端が渦巻いているではないか」とおのれの偽りなき姿をそのままさらすのです。これが親鸞という人です。

先の第91首のところでも述べましたように、「貪瞋・邪偽おほきゆゑ 奸詐ももはし身にみてり」ということばはわれらのことばではありません。これは仏のことばと言わなければなりません。われらが自分のことばとしてこのように言うとしますと、そこにはすでに虚仮が忍び込んでいます。密かに「このように言えるからには、自分のなかの貪瞋・邪偽・奸詐百端を自覚しているのであり、そんなことではいけないと反省しているのだ」とおのれを弁護しています。自分は悪人であると自覚できるほどには善人なのだと思っているのです。これこそしかし「奸詐ももはし身にみてり」と言わなければなりません。「私は悪人です」と公言しながら、実は密かに自分を善人として底上げしているのですから。ここからはっきりしますのは、「奸詐ももはし身にみてり」ということばが正真正銘のものであるとしますと、これは仏のことばとしてわれらに突きつけられたものであるということです。親鸞はこの仏のことばを受信しているのです。

「外現賢善精進之相内懐虚仮」は、われらが発信したことばでしたら、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」となるでしょうが、親鸞はこれを仏から受信して「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐(けばなり)」と聞いているのです。


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