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菩薩道 [「『証巻』を読む」その46]

(5)菩薩道

『浄土論』に阿弥陀仏を讃嘆する偈文として「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」(これを不虚作住持功徳成就と言い、古来この文は多くの人に感銘を与えてきました)とあり、それを天親みずから解説して「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心(未だ浄心を証せず)の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑに」と述べていまして、曇鸞がこの解説文を丁寧に注釈しているのです。親鸞がなぜこれをここで引用しているか、にわかには分かりにくいですが、もう少し先まで読みますと、第二十二願と関係していることが明らかになります。

ともあれまずはこの文の意味することをきっちり押さえていきましょう。ここには菩薩の地位をあらわすことばがたくさん出てきて慣れないものを戸惑わせますが、菩薩道の階位としてよくつかわれるのが、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・正覚の五十二階位です。いま問題になっているのは十地ですが、十地の初めが初地で、これが不退の位、すなわち、もうどんなことがあっても仏(正覚)となることから退転することのない地位です。第十八願成就文に「不退転に住す」とあり、第十一願では正定聚と言われている位に他なりません。そして初地から七地までを「未証浄心の菩薩」と言い、八地を「浄心の菩薩」、九地・十地を「上地の菩薩」と言います。

七地までの菩薩と八地以上の菩薩とでは大きな落差があります。八地以上になりますと寂滅平等を得た平等法身になるということですが、この平等法身について曇鸞は「種々に一切衆生を教化し度脱して、つねに仏事をな」しながら、「往来の想、供養の想、度脱の想」がないと説明してくれます。未証浄心の菩薩も同じようによく仏事をなしますが、「いましよく作心せざるにあらず」で、どうしても自分が仏事をなしているという意識から離れることができないということです。浄心の菩薩になりますと、おのずからにして自在無礙のはたらきができるようになりますが、未証浄心の菩薩はまだ自他のとらわれが残っているということです。


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第5回、本文2 [「『証巻』を読む」その45]

(4)第5回、本文2

さてこれから還相の菩薩についての『論註』の文がはじまります。

またいはく、「〈すなはちかの仏を見たてまつれば、未証(みしょう)(じょう)(しん)の菩薩(菩薩の階位・十地のうち、初地から七地までの菩薩)、畢竟(ひっきょう)じて平等法身(八地以上の菩薩の身)を得証す。浄心の菩薩(八地の菩薩)と、上地のもろもろの菩薩(九地・十地の菩薩)と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。平等法身とは、八地以上法性(ほっしょう)生身(しょうじん)(法性真如の身)の菩薩なり。寂滅平等とは、すなはちこの法身の菩薩の所証の寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもつてのゆゑに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるをもつてのゆゑに、名づけて寂滅平等の法とするなり。この菩薩は報生(ほうしょう)三昧(ざんまい)(八地以上の菩薩が得る寂静の境地、意志をはたらかせることなく衆生救済ができる)を得。三昧神力をもつて、よく一処・一念・一時に、十方世界に遍して、種々に一切諸仏および諸仏大会衆(だいえしゅ)(かい)を供養す。よく無量世界に仏法僧ましまさぬ処にして、種々に示現(じげん)し、種々に一切衆生を教化し度脱(どだっ)して、つねに仏事(衆生救済の仕事)をなす。初めに(はじめから)往来の(おもい)供養の想、度脱の想なし。このゆゑにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法とす。未証浄心の菩薩とは、初地以上七地以還(いげん)(以下)のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百もしは千、もしは万ましは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作(せさ)す。かならず心をなして三昧に入りて、いましよく()(しん)(意志をはたらかせる)せざるにあらず。作心をもつてのゆゑに、名づけて未証浄心とす。この菩薩、安楽浄土に生じてすなはち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見る時、上地のもろもろの菩薩(八地以上の菩薩)と、畢竟じて身等しく法等しと。龍樹菩薩・婆藪槃頭(ばそばんず)菩薩(天親)の(ともがら)、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこのためなるべしならくのみと。


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一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる [「『証巻』を読む」その44]

(3)一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる

「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他(しゃまた)・毘婆舎那(びばしゃな)・方便力成就することを得て、生死の稠林(ちゅうりん)に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり」と言われますと、またしてもこれはもう人間業ではないような印象を受けます。そしてそこから、これは今生のことではなく、いのち終わって後のことに違いないという思いが出てくるのですが(還相来生説)、考えてみますと、先の賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」ということばも、とても人間のことばとは思えません。これはもう仏のことばと言わなければなりませんが、それもそのはずで、すでに述べましたように、賢治はこれを仏の願いとして仏から聞いているのです。彼が言ったには違いありませんが、その前にこれを仏から聞いているのです。だからこそこれは人間の語ることばとは思えないのです。

親鸞が「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」という『浄土論』の文を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得〈たまへる〉がゆゑに」と読み替えたわけがいよいよ明らかになりました。天親が上のように言えたのは、如来からそのことばを聞いたからこそであり、天親のことばとは言うものの、それは実は如来のことばだということです。われらが「回向を首として大悲心を成就」することができるのは、如来がすでに「回向を首として大悲心を成就」してくださっているからであるということです。

還相とは「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり」と言われますと、われらが一切衆生を教化して、ともに仏道を歩むようにしなければならないように思ってしまいますが、生身のわれらにそんなことができるはずがありません。そうではなく、一切衆生を教化して、ともに仏道を歩むようにさせるのが如来の願いであることに目覚め、自分もまた如来の願いを自分の願いとして生きようとするということです。本願を聞くことができますと、本願をわが願いとするようになるということであり、これが還相です。


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「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」 [「『証巻』を読む」その43]

(2)「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」

親鸞の読みは如何にも不自然と言わざるをえません。文の前半の主語は諸有衆生であるのに、「至心回向」の主語はとつぜん法蔵菩薩となり、そして「願生彼国」以下の主語はまた諸有衆生に戻るというのはどうにも不規則です。しかし親鸞としてはどうしてもそう読まなければならない論理的な必然性があるのです。通常どおり「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」と読みますと、回向するのも願生するのも「わがはからい」ですが、われらが回向し願生したからといってどうして「すなはち往生を得」などと言えるでしょう。しかし「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」と読みますと、法蔵菩薩がかねてから「至心に回向し」て、われらの往生を願ってくださっているのです。だからこそわれらも願生することができるのであり、そして「すなはち」得生することができるのであることが明らかになります。

それと同じように、法蔵菩薩がかねてから「回向を首として」「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願ってくださっているからこそ、われらもまた「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへし」めようと願うことができるのです。頭に浮ぶのが宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)ということばです。このことばには有無を言わさぬ真実を感じさせられますが、それは賢治がこのことばを言うのに先立って如来が「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願ってくださっているからに他なりません。賢治は如来のこの願いに目覚めたからこそ、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言うことができたと言わなければなりません。

としますと、われらの願いの底の底に如来の願いがひっそりと息づいているということではないでしょうか。われらは普段そんな願いがあるとは思いもよらず、ただひたすら自分勝手な「わが願い」をかなえようと必死になっているのですが、あるときふとその奥に如来の願いがひそんでいることに思い当たるのです。これは、すっかり忘れていたこと、忘れたこと自体を忘れ果てていたことを突然思い出すのによく似ています。そのとき「ああ、そう言えば」と思い当たるように、ふと如来の願いに気づいて「ああ、これがほんとうの願いだ」と思い当たるのです。


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第5回、本文1 [「『証巻』を読む」その42]

第5回 一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる

(1)  第5回、本文1

これから『論註』の引用が「証巻」の終わりまで延々とつづきます。親鸞は還相のありようを語るのに、みずからはひと言も発せず、ひとえに『論註』に語らせるのです。まずはその最初の一文で、還相とは何かについてです。

『論註』にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩(しゃま)()(止と訳される、禅定に入ること)・毘婆舎那(びばしゃな)(観と訳される、仏や浄土を観察すること)・方便力成就することを得て、生死の(ちゅう)(りん)(密林)に回入(えにゅう)して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。

この文は『浄土論』の中で五念門(礼拝、讃嘆、作願、観察、回向)のそれぞれが解説され、最後の回向について「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」と述べられているのを受けて、曇鸞が注釈しているものです。先回の最後のところで述べましたように、親鸞はこの天親の文を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得〈たまへる〉がゆゑに」と読み替え、主語を「われら」から「法蔵菩薩」へと転換しています。われらが「わがはからい」により「衆生を抜いて生死海を渡せん」とするのではなく、因位の法蔵菩薩がすでにそのようにはからってくださっているからこそ、われらもまた「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願うことができるのだということです。

思い出されるのが第十八願成就文です。「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」というものですが、親鸞は「至心に回向して」以下をこう読みます、「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。われらが「至心に回向して」と読むべきところを、親鸞は法蔵菩薩が「至心に回向したまへり」と読み替えてしまうのです。


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みな阿弥陀如来の本願力による [「『証巻』を読む」その41]

(10)みな阿弥陀如来の本願力による

親鸞はおそらくこの曇鸞の解釈に目からうろこが落ちる思いをしたことでしょう。そしてその眼で『浄土論』を最初から読み直したに違いありません。そうしますと、天親は主語を「往生浄土を願う菩薩」として語っていますが、この菩薩とは実は法蔵菩薩のことではないかと見えてきたのではないでしょうか。かくして親鸞は五念門の最後の回向についての文、「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就するがゆゑに」(このすぐ後に出てきます)を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを〈えたまへる〉がゆゑに」と読むことになります。われらが回向をするのではなく、法蔵菩薩がしてくださるというのです。

このように法蔵菩薩を主語として読みますと、本文の中の「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して」ということばや、「応化の身を示す」、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して」、「神通に遊戯して教化地に至る」はみな自然なものに思えます。ただしかし、そうするとわれらはどうなるのかという疑問が生まれてくるのは必至です。五念門はすべて法蔵菩薩が修め、五功徳門も法蔵菩薩が成就するとしますと、われら願生の行者は何もすることがなくなるではないかという疑問です。天親は明らかにわれらの行とそれによって得られる利益を説いているが、それと「みな阿弥陀如来の本願力による」こととはどのような関係になるのだろうかということです。

「みな阿弥陀如来の本願力による」としても、われらが阿弥陀如来を信じ、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の諸行をすることが否定されるのではないでしょう。弥陀を信じ念仏を申すのは紛れもなくわれらです。ただそれに先立って、「阿弥陀如来の本願力により」われらが弥陀を信じ念仏を申すようにはからわれているということです。われらのはからいで弥陀を信じ念仏を申すのではなく、「弥陀の御もよほしにあづかつて」(『歎異抄』第6章)弥陀を信じ念仏を申すのです。弥陀を信じ念仏を申すことがわれら「に」おこることは紛れもないことですが、それをわれら「が」おこしているのではないということです。

(第4回 完)


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覈(まこと)に其の本を求むるに [「『証巻』を読む」その40]

(9)覈(まこと)に其の本を求むるに

さてこの文を一読して、どんな印象が与えられるでしょう。「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して」といい、「応化の身を示す」といい、「生死の園、煩悩の林のなかに回入して」といい、「神通に遊戯して教化地に至る」といい、ことばの一つひとつが人間業をはるかに超えているように感じられないでしょうか。『浄土論』は一貫して往生浄土を願う行者、すなわちわれらを主語として語られていますが、この「出第五門」まで来ますと、もうわれらのこととは到底思えないような語り方になっています。これをどのように理解すればいいでしょう。

そこで曇鸞の『論註』を見ますと、その末尾で曇鸞はこんな問いを立てています、「菩薩はかくのごとく五念門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の無上の悟り)を成就することを得る」と天親は言うが、どうしてそんなことが言えるのだろうかと。そしてみずからそれに答えて、天親は「(菩薩が)五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑ」と言っているが、「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁(すぐれた力)となす」と言うのです。天親は往生浄土を願うわれらが五つの自利利他の行を成就するからと言うが、実はそれは阿弥陀如来のすぐれた力によるのであるということです。

曇鸞はその根拠として「他利と利他」の違いを持ち出します、「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利をいふべし」と。利他ということばは仏にしてはじめて言えることで、われら衆生からは他利(他すなわち仏がわれらを利益する)としか言えないという意味です。ところで上の文で「自利利他成就する」と述べられているから、これはわれらではなく、阿弥陀如来のことを述べていると理解しなければならないと言うのです。かくして「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」と結論されることになります。

われらが自利利他の行をなすことにより往生浄土ができるのではなく、すべて阿弥陀如来の本願力のおかげであるということです


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第4回、本文2 [「『証巻』を読む」その39]

(8)第4回、本文2

どちらの読みでも全体の意味が大きく変わるわけではありませんが、しかし「除く」を最後までかけて読みますと、還相の菩薩は例外であるという印象がより強まると言えます。親鸞のように、最後の一文を「除く」から外して読みますと、「普賢の徳を修習せん」が「もししからずは、正覚を取らじ」にすぐつづくことになり、これがむしろ常道であるという印象が生まれてきます。もう一歩すすめて言えば、親鸞の読み方をすることで、「除」の一字は、あってもなくてもさして変わらないようになります。すなわち「究竟してかならず一生補処に至らん」ことと「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに云々」とはとくに対立することではなく、むしろ一生補処に至ることがそのままで還相の菩薩として「普賢の徳を修習せん」ことであるように見えてきます。かくして往相がそのまま還相ということになります。

最初の一文にかなり時間をかけましたが、先に進みましょう。親鸞は『浄土論』から次の文を引きます。

『浄土論』にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察(かんざつ)して、応化(おうげ)の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入(えにゅう)して、神通に遊戯(ゆげ)して教化地(きょうけじ)に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。以上

天親は『浄土論』において、善男子・善女人が「安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつる」には、五つの行(五念門とよばれます)、すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の各門を修めるべきであるとし、それが成就すれば、五念門のそれぞれに応じて五つの功徳(五功徳門とよばれます)を得られると言います。それが近門(ごんもん)・大会衆門(だいえしゅもん)・宅門・屋門・園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)で、「初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す」と述べています。本文において「出第五門」と言われていますのは、園林遊戯地門のことです。前にふれましたように、天親が「入」と言っていることを曇鸞は「往相」とし、「出」を「還相」と言い替えています。そこで親鸞は還相のありようを明らかに示すものとしてこの文を引用しているのです。


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生死の園、煩悩の林のなかに回入して [「『証巻』を読む」その38]

(7)生死の園、煩悩の林のなかに回入して

さて「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し云々」という文は、この後すぐ引かれる『浄土論』の「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入(えにゅう)して、神通に遊戯(ゆげ)して教化地に至る」という文と重なり、還相を生きる菩薩の姿が描かれています。冒頭の「その本願の自在の所化」とは、弥陀の浄土に来生した菩薩が、衆生を自由自在に教化したいという本の願いにしたがって、という意味で、この「本願」は菩薩の「本の願い」ということです。

ここで考えておきたいのは、この還相のはたらきが「除く」というかたちで表現されているということです。

信心を得て来生すれば「究竟してかならず一生補処に至らん」と述べた後、しかし還相の菩薩として衆生を教化利益するために生死の園に入っていこうとするものは「除く」と言うのです。この言い回しからは、往生して一生補処に至るのが本来であって、還相の菩薩として生死の園に入り衆生教化するのは本来の道から外れるような印象をうけます。往生して一生補処に至るのとは別に、還相の菩薩として利他教化する道もあるが、それはあくまで例外であるとされているように思えるのです。しかし親鸞はそのような印象を打ち消し、はっきりこう言います、「これは如来の還相回向の御ちかひなり」と。すなわち親鸞によれば、この願は「除く」とされた部分にその本質があり、浄土に往生したものは、ただちに還相の菩薩として衆生教化のはたらきをするために生死の園に入っていくのであると。

あらためて「除く」とされる文を子細に見ますと、親鸞はこの「除く」を「恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめん」までかかるとし、最後の「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん」を「除く」から外して独立させています。しかし普通に読みますと、「除く」は最後の一文までかかるのではないでしょうか(浄土宗の読みはこちらです)。


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還相回向の願 [「『証巻』を読む」その37]

(6)還相回向の願

親鸞は第二十二願の願文を後で引用される『論註』に委ね、ここでは出していません。しかし先に読んでおいた方がいろいろな点で好都合でしょう。「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟(くきょう)してかならず一生補処(ふしょ)に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累(しゃくるい)し、一切を度脱(どだつ)せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙(ごうじゃ)無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫(じょうりん)に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習(しゅじゅう)せん。もししからずは、正覚を取らじ」。

この願は四十八願の中でもっとも長く、少々分かりにくいと思われますので、現代語訳しておきましょう。「わたしが仏となるとき、他の仏国土の菩薩たちがわたしの国に生まれてくれば、かならず一生補処の位に至らせたいと思います。ただし、その本の願いに応じて、自在に衆生を導こうとして、弘誓の鎧をきて功徳を積み、一切の衆生を救い、諸仏の国に赴いて菩薩の行を修め、すべての国の諸仏如来を供養し、限りない人々を教化してこの上ないさとりをえさせようと思うものはその限りではありません。そのような菩薩は、普通のあり方を超えて菩薩としての行が成就し、大いなる慈悲の行をなすことができます。もしそのようでなければ、わたしは決して仏の覚りをひらきません」。

この願は、文頭の「たとひわれ仏を得たらんに」と文尾の「もししからずは、正覚を取らじ」を外しますと、大きく二つの部分に分けることができます。はじめの「他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん」という文と、「その本願の自在の所化」ではじまる残りの長い文です。はじめの文は、わが国に来生すれば、かならず一生補処に至ることができるということですが、ここから「必至補処の願」や「一生補処の願」という名前がつけられます。そしてこの願が「還相回向の願」であることは、「その本願の自在の所化」ではじまる残りの部分で明らかになります。親鸞はここにこの願の本質を見たのです。


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