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慈悲と智恵 [『浄土和讃』を読む(その186)]

(19)慈悲と智恵

 南無阿弥陀仏によってわれらは慈悲と智恵に寄り添われる身となるのですが、それは南無阿弥陀仏自身に慈悲と智恵が備わっているからであって、われらの手柄ではまったくありません。みな南無阿弥陀仏の手柄です。そしてもうひとつ。南無阿弥陀仏はわれらを慈悲の人、智恵の人にしてくれるのではありません。われらが貪愛瞋憎の人であることに何の変化もありませんし、われらが無明愚痴の人であることも何も変わりません。われらは貪愛瞋憎の人でありつつ慈悲に寄り添われ、無明愚痴の人でありつつ智恵に付き添われるのです。
 ついさっきまで憎まれ口をたたいていたその口からひょいと南無阿弥陀仏が出て行くように、貪愛瞋憎にまみれた身がひょいと慈悲の働きをすることがあります。慈悲の行いというものは事後的に判明するものです。何の気なしにやったことが、思いがけなく慈悲の行いになっていたと気づく。これがほんとうの慈悲です。「よし、慈悲の行いをしよう」と思ってするのはまずまがいものと言っていいでしょう。そこには何らかの打算が隠されています、人から褒められるだろう、あるいは後々何かいいことがあるだろうと期待するというように。
 ほんとうの慈悲は事後に慈悲であることが判明するということは、そこには「わたし」がないということに他なりません。まずもって慈悲の行いがあり、しかるのちに「わたし」が「ああ、これは慈悲の行いだ」と了解する。「わたし」は慈悲の行いに遅れて登場するのです。慈悲の働きが起っているのは間違いなく「わたし」ですが、「わたし」が慈悲の働きを起しているのではありません。「わたし」という場で起っていても「わたし」が起こしているのではないのです。
 信心も念仏も「わたし」という場で起りますが、「わたし」が起しているのではありません。それは阿弥陀仏が起しているのです。同にように慈悲や智恵の働きも「わたし」という場で起っても、「わたし」が起しているのではなく、「かげのごとく」寄り添っている観音・勢至が起しているのです。

タグ:親鸞を読む
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