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有量のいのちと無量のいのち [「親鸞とともに」その103]

(6)有量のいのちと無量のいのち

このイメージは、ここに「有量のいのち」があり、どこかはるかに離れたところ(西方十万億土)に「無量のいのち」があるという構図です。実際『無量寿経』にはそのように説かれています。しかし「無量のいのち」が真に無量であるとしますと、こちらに「有量のいのち」があり、あちらに「無量のいのち」があるという関係であることはありません。「無量のいのち」が無量である以上、その外部に一つでも「有量のいのち」があることはできないからです。としますと「無量のいのち」は「有量のいのち」のすべてをその内部に包摂しているということになります。そして、もうひとつ、無数の「有量のいのち」は個々バラバラにあるのではなく、互いに縦横無尽につながりあって存在します。それが釈迦の説く縁起ということです。

ここから浮かび上がってくるイメージは「いのちの網」です。広大無辺の網の一つひとつの結び目が個々の「有量のいのち」で、その無辺の網が「無量のいのち」です。「無量のいのち」とは、無数の「有量のいのち」がその中に入っている容器のようなものではなく、個々の「有量のいのち」たちのつながり(糸)の総体であるということです。さて、このイメージにおいて、如来(「無量のいのち」)とわれら(「有量のいのち」)の関係を考えてみますと、如来はわれらの外にあるとともに内にあると言わなければなりません。まず、無辺の網そのものは個々の結び目の外にあります。これはイメージしやすいですが、無辺の網が個々の結び目の内にあるというのはどういうことでしょう。

海のなかに無辺の網がただよっているとき、その一つの結び目をつまんで持ち上げようとしますと、それだけをもち上げることはできす、それにつれて他の結び目もズラズラと持ち上がってくることになります。ひとつにつながった網である以上あたりまえのことですが、これは一つの結び目のなかにすべての結び目が含まれていることに他ならないということです。ただ一つの結び目にすぎませんが、その内にすべてのつながりが入っているということです。その結び目は他のすべての結び目とのつながりから切り離されますと、もはや何ものでもなく、そのつながりのなかではじめて存立しているのですから。


タグ:親鸞を読む
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