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体と力用(りきゆう) [『教行信証』「信巻」を読む(その6)]

(6)体と力用(りきゆう)


弥陀も浄土ももともとわれらの心の中にあるのだが、無明煩悩に覆われてそれが見えなくなっているだけなどと言われますと、とんでもない説に思えます。浄土の教えでは「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹(せつ、国土)なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」(『大経』)と説かれ、弥陀もその浄土もこことは別のはるか彼方にあるのですから、「己身の弥陀、唯心の浄土」などというのは妄説も甚だしいとなります。


さてしかし問題の本質は、弥陀と浄土はわれらの「心の中」にあるのか、それとも「ここを去ること十万億刹」なのか、ということにあるのではありません。「心の中か外か」という問いは、いずれにしても弥陀と浄土をどこかに「体(実体)」として存在するものと捉えています。もういちど、われらに「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」がかけられているというところに戻りましょう(3)。これは「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」がわれらにかけられているという「力用(りきゆう、はたらきのこと)」のことを弥陀の本願と言っているのであり、どこかに阿弥陀仏とその本願という「体」が存在するということではありません。


浄土というのも、ここではないどこかに浄土とよばれる世界があるということではなく、「本の願い」がわれらにかけられているという「力用」がわが身の上に感じられたとき、そこに開ける風光のことです。このように弥陀も浄土も「体」ではなく「力用」であるとしますと、それが「心の中か外か」というのは意味をなしません。「力用」としての弥陀と浄土は、それがわが身の上に感じられた「そこ」に存在します。このように見てきますと、「自性唯心」の問題点は、弥陀と浄土を「心の中」に「体」として存在するものとしていることにあり、みずからの力で濁った心を清らかにすることによってそれを取り戻そうとしているところにあると言えます。



タグ:親鸞を読む
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