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「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [「『証巻』を読む」その87]

(4)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

菩薩とは「われら」かそれとも「法蔵」かということを考えてきましたが、結局のところ、「われら」であるとともに同時に「法蔵」であるということになり、「法蔵」とは阿弥陀仏の因位の姿ですから、五念門の行をなすのは「われら」でありながら同時に「ほとけ」であるということです。これまで節々で「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるままで「ほとけのいのち」であると言ってきましたが(それに気づくことが信心であると言ってきましたが)、それで言いますと、「わたしの行」はそのままで「ほとけの行」であるということです。

ここであらためて「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係について考えておきましょう。

「わたしのいのち」とは「有量のいのち」であり、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミターユス)」です。「有量のいのち」については何の説明も要りませんが、「無量のいのち」とは何か、これが問題です。まず、個々の「有量のいのち」とは別にどこかに「無量のいのち」があるわけではありません。もしそうだとしますと「無量のいのち」には外部があることになりますからもはや無量とは言えなくなります。ということは「無量のいのち」はすべての「有量のいのち」をそのなかに含むということです。ただ、「無量のいのち」をあらゆる「有量のいのち」を包容する「入れもの」のようなものとしてイメージしますと、またもや「有量のいのち」と「無量のいのち」が別ものになってしまいます。

「無量のいのち」とは「有量のいのち」たちの縦横無尽のつながりそのものと言うべきです。どこまでも広がる網のようなものが「無量のいのち」であり、その一つひとつの結び目が個々の「有量のいのち」です。無限大の網(無量のいのち)の一つの結び目(有量のいのち)を手でつまみ上げますと、それに伴ってズラズラと他のすべての結び目が上がってくるというイメージです。個々の「有量のいのち」は一つの結び目にすぎないという点では「有量のいのち」ですが、同時に、互いに縦横無尽につながりあっているという点から言いますと「無量のいのち」でもあります。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であるというのはそういうことです。


タグ:親鸞を読む
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