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『唯信鈔文意』を読む(その43) ブログトップ

また自はおのづからといふ [『唯信鈔文意』を読む(その43)]

(14)また自はおのづからといふ

 さて親鸞は「観音勢至自来迎」の「自」について、「みづから」の他に「おのづから」の意味があるとして、「おのづから」とは「自然(じねん)」であり、「自然」とは「しからしむ」こと、そして「しからしむ」とは、「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ことだと解説してくれます。
 南無阿弥陀仏に遇ったとき、そうしようと思わなくても、自然に悪が転じて善となるというのです。観音・勢至が寄りそってくださるというのはそういうことだと。ここにもぼくらの常識と反りのあわないものがあります。どうして何もしないのに悪が善に転ずるのだとこころのどこかが呟くのです。
 頭に思い浮かぶのは阿闍世(あじゃせ)の逆悪です。何の罪もない父王を殺した阿闍世の全身にできもの(かさ)が出て、膿が流れ、悪臭が漂うようになります。母・韋提希はいろいろな薬を試しますが効き目がなく、阿闍世は「これは心から生じているのだから、誰も治すことはできない」と嘆きます。「とんでもないことをしてしまった」という悔いの思いが「かさ」として吹き出ているのだと。
 大臣たちが「悔いることはありません、世の中には父王殺しなどザラにあります」と慰めるのですが、ひとり耆婆(ぎば)という医者だけは「よきかなよきかな、王つみをなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じてしかも慙愧(ざんき)をいだけり」と褒めるのです。親鸞は『教行信証』において『涅槃経』からこの部分を長く引用しています。
 ここに浮かび上がるのは「慙愧のこころ」です。『経』は「慙は人にはづ、愧は天にはづ」と教えてくれます。そして罪はそれを罪と自覚し慙愧することで罪でなくなるという不思議を説きます。


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