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カント哲学 [『ふりむけば他力』(その68)]

(7)カント哲学

 ここまでデカルト哲学と仏教という対立軸で考えてきましたが、ここにもう一人加わってもらいましょう。カントという哲学者です。われらが世界について確かなことを「知る」ためには、世界から自立している「わたし」がいなければならないことをさらに綿密に論じたのがカント(1724~1804)です。さてカントの批判哲学(カントは理性の限界を定めることを批判といいます)とはどういうものかを言わなければならないのですが、デカルトと違ってカントの文章は晦渋きわまりなく(読んでいる途中で本をドブに投げ捨てたくなります)、彼自身の文章をつなぎながら解説するのは至難のわざです。そこで無謀を承知で、あえてぼく流に大胆に要約してみましょう。
 カントによりますと、われらはみな生まれてこのかた特殊な眼鏡をかけていて、その眼鏡越しでしか世界を見ることができません。もし何かの事情でその眼鏡をなくしてしまいますと、極度の近視の人が眼鏡をなくしたときのように、もう世界は朦朧として何が何やら分からなくなります。したがってわれらが知ることができるのは、その眼鏡を通して見える世界(これをカントは「現象界」と言います)だけであり、世界そのもの(これを彼は「物自体」と言います)がどうなっているかはどうあっても知ることができないということ、これがカント哲学の要諦です。言ってみれば、われらは世界をありのままに見ているのではなく、特殊な眼鏡を通してわれら特有の世界をつくりだしているというのです。
 で、その眼鏡に当たるものは何かといいますと、もっとも分かりやすいのが三次元の空間と一直線で示される時間です。
 われらは世界そのものに空間という形式と時間という形式がそなわっていると思っていますが、カントはわれらが世界を見るときに空間と時間という眼鏡をかけていると言うのです。空間と時間は世界にそなわっているのではなく、われらが空間と時間というわれら自身のもっている形式を世界に当てはめて世界を認識しているということです。空間と時間は世界の側に属するというごく普通の見方を180度ひっくり返して、それはわれらの側に属するというのです。コペルニクスが天動説を180度ひっくり返して地動説を唱えたのになぞらえて、これをカントのコペルニクス的転回といいます。さてしかし、どういう根拠でそのようなことが言えるのか。

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