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釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり [『教行信証』「信巻」を読む(その81)]

(9)釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり


次に「三心(至誠心・深心・回向発願心)すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、このことはりあることなしとなり」という文ですが、これも善導としますと、三心を具すのも行をなすのもわれら行者ですから、われらが三心をもって定善や散善の行をなせば、往生できない道理はないという意味となります。実に分かりやすいですが、しかし親鸞にはそんなふうに読むことができません。三心も行もみな如来由来であるということ、ここに親鸞他力思想の肝があります。すなわち親鸞の頭にあるのは法蔵菩薩で、法蔵菩薩が三心を具して兆載永劫の行を積み、その徳をすべて回向してわれらの往生を願ってくださったからこそ、われらが往生できない道理はないということになります。「なんじ一心に正念にしてただちに来れ」という招喚が南無阿弥陀仏となってわれらに回向されているのですから、それを信受するだけでそのときに往生できるということです。


次に同じく善導の『般舟讃』と『往生礼讃』から引用されます。


 またいはく(『般舟讃』)、「敬ひて一切往生の知識等にまうさく、大きにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり、種々の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり」と。以上


『貞元の新定釈教の目録』(唐の貞元16年に編纂された訳経類の目録)巻十一にいはく、「『集諸経礼懺儀』上下 大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日の勅に准じて編入す」と云々。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経によりて『懺儀』を造るなかに、『観経』によりて善導の『礼懺』(往生礼讃)の日中の時の礼を引けり。下巻は「比丘善導の集記」と云々。かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二には深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。乃至 


〈それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一念を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし〉」と。抄出



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