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現益と当益 [『教行信証』「信巻」を読む(その128)]

(8)現益と当益

清沢満之の言う「現世に於ける最大幸福」とは「涅槃の門」に入ることでしょう。信をえて「涅槃の門」に入ることができることに勝る幸福はないということです。現世においてすでに「涅槃の門」に入ることができたのですから、それ以上に何も求めることはないということです。「いまここ」ですでに「涅槃の門」に入っているのですから、来世にはおそらく涅槃そのものに入るのでしょうが、さてしかし来世に涅槃に入るということがどういうことか、それはもう「こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と言わなければなりません。そもそも来世には「わたしのいのち」が消えているのですから、「わたしのいのち」がどうなる、こうなると語ること自体が意味をなしません。

ところがしばしば「現益(現世の利益)と当益(来世の利益)」について語られます。このことばは法然の『選択集』に由来しますが、このように現世の利益と来世の利益の二つの利益があると語られるとき、無意識のうちに「わたし」の連続性が前提されています。「わたし」は現世においてかくかくの利益を受け、そしてまた来世においてしかじかの利益を受けるというように、「わたし」が形を変えながらもつづくと思われています。このように当益ということばには、来世における「わたし」の存在が含まれていますが、これは釈迦の無我の教えと抵触します。釈迦が死後のことについては「無記(語らず)」の姿勢を貫いたことはよく知られています。

そしてさらにこの現当二益の考えには、当益が主で現益は従であるという暗黙の了解があります。来世に浄土で涅槃に入ることが肝心で、現世でえられる利益はそれに付随したものにすぎないという感覚です。しかし親鸞の(そして満之の)感覚は、救いは「いまここ」にしかないというものです。頭に浮ぶのは釈迦とマールンクヤ青年の対話です。青年は釈迦にしつこく「死んだらどうなるか」を問うのですが、それに対して釈迦は「毒矢の譬え」を持ち出して答えます。「毒矢を射られたものにとって、すぐ矢を抜き、毒を吸い出すことが喫緊の課題なのに、汝がしようとしていることは、矢を射たもののカーストを知ろうとするようなものだ」と。救いは「いまここ」にしかないのに、それを来世に求めようとしているということです。


タグ:親鸞を読む
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