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負けてたまるか [「親鸞とともに」その59]

(2)負けてたまるか

われらがそれぞれ「わたしのいのち」を生きる以上、「わたしのいのち」をさまざまな観点から他と比較し、そこに優劣をつけることを避けることはできません。問題は、そのことで他を妬んだり、逆に見下したりすることであり、それが劣等感=優越感の正体ですが、これはどこからくるのでしょう。自分は他より劣っている、あるいは優れていることが判明したとき、「ああ、そうなんだ」と思うだけで終わるのではなく、劣っているときは他を妬み、優れているときは他を見下すのはどうしてでしょう。それは、劣っているときは「こんなはずじゃない、これは何かの間違いだ」と思い、優っているときは「こうあるのが当然のことだ」と思うからです。つまり、自分は他より劣っていてはおかしい、そんなことがあるはずがないという何の根拠もない思い込みがあるということです。

「わたしのいのち」は他より劣っているはずがないという思い込みはどこからくるかをさらに探りますと、「わたしのいのち」は「わたしのちから」で生きなければならないという根本的なバイアスがかかっているからです。「わたしのちから」で生きなければならない以上、他を蹴落としてでも前に進まなければならず、したがって「わたしのちから」は他より優れていなければならないということになります。これはもう理屈でも何でもなく、ただそうあらねばならないという根拠のない願望です。このような願望があるところに、自分は他より劣っているという事実が突き付けられますと、「どうしてそんなことがあるのか」という怒りが起こり、そしてそれはさらに自分より優っているとされる他者への憎しみ、嫉み、妬みとなるのです。

要するに「わたしのいのち」を「わたしのちから」で生きるということは、他との勝ち負けがかかっており、「負けてたまるか」という思いに支えられていることから、他より劣っているという事実は受け入れがたいものとなり、そこから自分より優っているものへの嫉み、妬みという劣等感が生まれてくるということです。優越感についても劣等感の裏返しであり、推してしるべしです。


タグ:親鸞を読む
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