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善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり [「信巻を読む(2)」その40]

(5)善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり

輪廻は囚われであると言いましたが、ではそれはどのような囚われでしょうか、そしてそれが囚われであることに気づき、「輪廻を断つ」ことができたとき、そこにはどのような風光が広がるのでしょう。

輪廻とはこの生が終わるとまた新たな生がはじまるというだけではありません、新たに生まれる世界が天から地獄までさまざまであるということです。天や人に生まれることができればいいですが、地獄・餓鬼・畜生に生まれたら大変です。そして次にどの世界に生まれるかは、今生でどのような生き方をしたかによって定まるのですから、われらはつねに何が善で何が悪かを分別し、善をなし悪をなさないように細心の注意を払わなければなりません。これはまさに「自力で生きる」ということで、いつも「これから」のことを考えて最善の生き方を選びとるということです。

それは人として当たり前のことではないかという気がします。われらは程度の差はあれ、みな「これから」のことを考え、善き生き方をしたいと願っています。さてしかし、ここで是非とも考えなければならないのは、『歎異抄』「後序」に出てくる親鸞のことばです、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。…煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と。いつも言うことですが、このことばは親鸞の口から出たものに違いありませんが、親鸞が発信源ではありません。これは親鸞に「汝、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と聞こえてきたことばであり、親鸞はそのことばの前に力なく頷いているのです。

もう一つ上げておきますと、同じく『歎異抄』第13章の「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにてはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」とあります。これらのことばが何を言わんとしているかは明らかでしょう、われらは「わが力」で善悪を分別し、善きことをなし、悪しきことをなさないようにと思っていても、業縁により何をしでかすか分かったものではないということです。


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輪廻を断つ [「信巻を読む(2)」その39]

(4)輪廻を断つ

仏教は無我の教えです。実体としての「われ」(梵語で「アートマン」)は存在しないという立場ですが、輪廻転生とは姿かたちは変わっても「同一なるもの」が生死をくり返すということですから、それは「アートマン」を前提してします。ですから両者は真正面からぶつかると言わなければなりません。かくして仏教は輪廻を否定するという形でしかそれを自分のなかに取り込むことはできないということになり、実際ここでも「生死を断絶す」と言われていますように、仏教は輪廻を断つことをめざしているわけです。

さて問題はこの「輪廻を断つ」とはどういうことかです。

輪廻転生は世界のリアルなありようであるとしますと、それを断つということは、この世界から飛び出て、もはや輪廻のない別の世界に入るということになるのでしょうか。そういうことだとしますと、ここに深刻な問いが浮び上がります。それは、この世界から出て、輪廻のない別の世界に入るのは誰かということです。それは「われ」以外にはありませんが、ということは、これは新手の輪廻ということにはならないでしょうか。「われ」はこれまで六道を輪廻してきましたが、いまやその輪廻を断ち切って、もはや輪廻することのない世界に入るということですから、一つ次元が上がるかもしれませんが、「われ」が別の世界で生まれ変わるという点ではこれまでの輪廻と本質的な違いはないと言わなければなりません。

以上のことから、無我の立場を貫こうとする限り、輪廻を世界のリアルなありようとすることはできないという結論になります。では輪廻とは何か。考えられる答えはただ一つ、輪廻とは「囚われ」であるということです。われらは輪廻という観念に囚われ、この生が終われば、また別のかたちに生まれ変わるものと思い込んでいるということであり、したがって「輪廻を断つ」とは、それが囚われであることに気づくということです。輪廻は囚われにすぎないと気づいたそのとき、もはやわれらは輪廻に支配されることはありません。これが「横さまに生死を断つ」ということです。


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断四流 [「信巻を読む(2)」その38]

(3)断四流

先に「横超断四流」の「横超」についての自釈がありましたので、次に「断四流」についての自釈です。

断といふは、往相の一心を発起するがゆへに、生(卵生・胎生・湿生・化生の四生)としてまさに受くべき生なし。趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡し、果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有(欲界・色界・無色界の三界)の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。四流とはすなはち四暴流(欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流で、四つの激しい煩悩の流れ)なり。また生老病死なり。

『大経』には「五悪趣を截り」とあり、『観経疏』では「四流を断つ」とあります。いずれも「生死の流れを断絶する」ということで、生老病死を果てしなく繰り返す輪廻転生を断つということです。『高僧和讃』に「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の新光摂護して ながく生死をへだてける」とありますが、この「生死をへだてる」ことが「五悪趣を截り」、「四流を断つ」ことです。唯円は『歎異抄』の第15章でこの和讃について、これは「信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし」という意味だと解説し、決して今生においてさとりをひらき仏となることではないと釘をさしています。当時、この和讃を根拠に念仏すれば今生に成仏できると唱える人たちがいたと見えます。

まず考えておきたいのは輪廻ということです。輪廻を断つことが解脱であり、仏教はそれをめざすとされるのですが、さてそもそも輪廻とは何でしょうか。この思想はインドに古くから伝えられ、それが仏教にも取り入れられたのですが、いのちあるものは形を変えながら生死をくり返すということです。いのちあるものは必ず死を迎えますが、それで終わりではなく、また生まれかわるというのです。そしてその生まれ方も生まれる世界もさまざまで、本文に出てきましたように、四生・六趣を経廻ることになります。仏教もこれを取り込んだのは確かですが、しかしどのように取り込んだのでしょう。


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時間を超えて [「信巻を読む(2)」その37]

(2)時間を超えて

自力が「これから」であるのに対して、他力は「もうすでに」です。他力とは「如来の本願力」のことですが、それは、気がついたら「もうすでに」本願力によって生かされていたということです。「これから」本願力によって何かを得ようというのは他力ではありません、自力です(親鸞が横出ということばで「他力のようだが実は自力」というありかたを表現していますのはこれのことです)。そして他力の「もうすでに」とは「時間のなかの過去」ということではありません、「どんな前よりももっと前から」ということで、これはもう時間そのものを超えています。経にはしばしば「曠劫よりこのかた」という表現がでてきますが、これは「時間を超えて」ということに他なりません。

つい先ほどこう言いました、われらは否でも応でも時間のなかで生きているが、しかしその時間の秩序を超えるものがあると。否応なく時間のなかで生きているというのが自力ということで、一方、時間の秩序を超えてやってくるものがあるというのが他力ということです。われらは自力でさまざまなものを得ようとしていますが、これは否応なく時間の秩序のなかのことであり、時間を超えることはできません。ところがその一方で、これまた否応なく時間を超えたものに遇うことがあります。時間は「こちらから」超えることはできませんが、「むこうから」時間を超えてやってくるものがあるのです。これが本願他力に遇うということです。

われらは自力で生きる限り時間のなかにいますが、あるとき時間を超えた他力がやってくるのです。これは、時間のなかにいながら、そのただなかで時間を超えたものに遇うという不可思議な経験です。時間を超えたものに遇ったからと言って、時間を超えてしまうわけではありません。これまでと何も変わらず時間のなかで生きるのですが、しかし同時に時間を超えた他力に生かされるのです。これが「わたしのいのち」は「わたしのいのち」として自力で生きながら、同時に「ほとけのいのち」という他力に生かされるということです。


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横さまに超える [「信巻を読む(2)」その36]

第4回 横さまに超える

(1) 横さまに超える

「横超断四流」釈のつづきで、『大経』と『大阿弥陀経』からの引用です。

『大本』(『大経』)にのたまはく、「無上殊勝の願を超発す」と。

またのたまはく、「われ超世の願を建(た)つ、かならず無上道に至らんと。名声(みょうしょう)十方に超えて、究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじ」と。

またのたまはく、「かならず超絶して、去(す)つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を截(き)り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極(ぐうごく)なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」と。以上

『大阿弥陀経』 支謙三蔵の訳 にのたまはく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るにこれ極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず、自然の牽くところなり」と。以上

「横超断四流」は善導のことばでしたが、その「横超」に当たることばを経典に探り、これらの文が上げられています。「無上殊勝の願を〈超〉発す」、「われ〈超〉世の願を建つ」、「かならず〈超〉絶して、去つることを得」の「超」ということば、そして「〈横〉に五悪趣を截り」の「横」いうことばは、いずれも「時間の秩序」を「横さまに超える」ということを意味します。われらは否でも応でも時間のなかで生きていますが、その時間の秩序を「横さまに超える」ものがあるということです。

「横超断四流」に関する親鸞の自釈のところで、自力と他力の対立についていろいろ考えましたが、それを時間との関係でいいますと、自力は「これから」であるのに対して、他力は「もうすでに」であると言えます。自力とは「みずからの力で何かを得る」ということで、それは本質的に「これから」です。みずからの力で「もうすでに」得てしまったこともあるではないかと言われるかもしれませんが、しかしみずから得てしまったことも、それで終わりというわけにはいきません、それを失くしてしまわないように「これから」も努力しつづけなければなりません。それではじめてほんとうに「みずから何かを得る」と言えます。その意味で自力の本質は「これから」です。


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本願力に気づく [「信巻を読む(2)」その35]

(11)本願力に気づく

しかし「東ニ病気ノコドモアレバ云々」ということばは紛れもなく賢治のことばとしてわれらの心を打ちます。そしてこれこそ真実のことばだと感じます。としますと、このことばは賢治から出てきたものであるのは間違いないないとしても、賢治が発信源であるのではなく、賢治はこれをどこかから聞いていると考えるしかありません。賢治はこのことばを受信して、それをわれらに伝えてくれているということです。賢治には「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術概論綱要』)ということばもありますが、これもまた、ここに真実ありと感じさせることばです。そしてこれまた賢治がこれを発信しているのではなく、むしろ彼はこれを受信しているのであり、彼自身がこのことばに打たれているというべきです。

真実は、それがわれらの心を揺さぶるものであれば、われらからではなく、どこかむこうからやってくるということ、これが他力ということであり、それを如来の本願力とよんでいるのです。

自力の信か他力の信かについて考えてきました。そして、その信が正真正銘のものであるならば、自力ではなく他力であるという結論に至りました。しかし最後に念を押しておかなければならないことがあります。「自力の信」は問題ありませんが、「他力の信」ということばには思わぬ落とし穴があるからです。「他力を信じる」ということを「本願他力を信じて、それを頼りとする」と受け取りますと、それは他力ではなく自力になっているということです。「他力を頼りに生きる」のは実は自力です。先に「他力」ということばが出てくれば、その主語は如来でありわれらではないと言いましたが、「他力を頼りに」と言うときは、主語がわれらになっています。「われら」が他力を頼りとして生きるのですから、これは自力に他なりません。

では「他力を信じる」とはどういうことかといいますと、それは「本願が信心となる」ということです、信心となった本願に生かされていること、これが本願他力を信じるということです。

(第3回 完)


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救いは如来の本願力による [「信巻を読む(2)」その34]

(10)救いは如来の本願力による

二つ目として「如来」とは何かという疑問があるでしょう。他の「人」の力で救われるのはよく分かるが、「如来」の力(本願力)で救われるとはどういうことかという問いです。この問いには如来を実体ととらえるべきではないと答えたいと思います。われらは如来と言われると、どうしても何か実体的なものをイメージしてしまいますが、そうではなく、ある「はたらき(仏教では用‐ゆう‐といいます)」を如来と言っているということです。先に親鸞のことばとして「他力といふは如来の本願力なり」とありましたが、これは如来という実体が本願力というはたらきをしているということではなく、本願力という救いのはたらきを如来とよんでいるのだと受けとるべきです。本願力という救いのはたらきとは別にどこにも如来は存在しないということです。

さてでは本題の、みずから救いを得ることができるか、それとも救いは如来の本願力によるしかないのかという問いです。救いを得る力をわれらがもっているか、それともそれは如来の本願力によるしかないのかということです。この問いを考えるときに鍵になるのは、救いの力は、それが正真正銘のものとすれば、無限の力でなければならないということです。先に、宗教的な救いとは、置かれている状況の如何にかかわらず、生きる安心があることだと言いました。どんな状況にあっても安心して生きることができること、これが救いですが、そのような救いをもたらすことができるのは無限の力でなければなりません。この場合は救うことができるが、この場合はできないというのでは本物の救いとは言えないからです。

このように見てきますと、われらにそのような力があるとは到底考えることができません。われらはあくまでも有限な存在だからです。宮沢賢治の詩に「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ、北ニケンクヮヤソショウガアレバ、
ツマラナイカラヤメロトイヒ」(「雨ニモマケズ」)とありますが、これをこのことば通りになしうる力がわれらにあるとはとても思えません。それこそ本願力とよばれる無限のはたらきというべきであり、かくして救いはわれらの力ではなく、如来の本願力によるという結論に至ります。


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竪か横か [「信巻を読む(2)」その33]

(9)竪か横か

このように竪超・竪出・横超・横出と四つに分けられますが、竪超は「超(頓)」とは言うものの、実際には天台や真言などでも長い修行が前提とされますから、自力聖道門はみな漸(出)というべきでしょう。そして横出は「横(他力)」とは言うものの、諸善万行や自力念仏により往生をめざすのですから、実際には自力(竪)と言わなければなりません。このように自力(竪)は漸で、他力(横)は頓ですから、四重とは言っても、結局のところ竪の自力の立場か横の他力の立場かの二者になります。竪すなわち自力か、それとも横すなわち他力か、すべてはここに収斂します。そこでこの原点に戻り、真実の信心は自力=竪ではなく他力=横であることを確かめたいと思います。

自力の意味にはあいまいなところは何もありません、みずからの力で何かを得ようとすることです。しかし他力ということばにはそのなかに複数の意味が積み重なっていて、そこからさまざまな混乱が生まれてきます。普通の意味(日常語としての意味)では「他の力をかりて」ということです。「何ごとも他力ではダメ、自力でやらなきゃ」というのはそういう意味です。しかし浄土の教えにおいては、他力ということばには特有の意味が込められていて、親鸞はそれをこう言っていました、「他力といふは如来の本願力なり」(「行巻」)と。このように、他力とは如来が衆生を救う力のことで、浄土の教えにおいて他力ということばが出てきたときにはその主語はあくまでも如来であり、決してわれらではありません。

かくして自力の立場と他力の立場は、「みずからの力で救いを得ることができる」か、それとも「救いは如来の力による」かの違いであるということになります。

その本題に入る前に予想される疑問に答えておきたいと思います。一つはそもそも「救い」とは何かということです。宗教的な意味での救いとは、生きることの「安心(あんじん)」と言えます。仏教の「あんじん」は普通の「あんしん」とは異なります。「あんしん」は不安を引き起こす状況が取り除かれたときに生まれるもの(状況に左右されるもの)ですが、「あんじん」はどんな状況に置かれてもあるもの(状況に左右されないもの)です。たとえば重い病が快方に向かうとき感じるのが「あんしん」であるのに対して、重い病のなかにあろうがなかろうが感じるのが「あんじん」で、これが宗教的な意味における「救い」です。


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横超断四流 [「信巻を読む(2)」その32]

(8)横超断四流

以上で「三心一心問答」が終わり、ここで「信巻」を閉じてもよさそうに思われますが、実はこれから「信巻」の後半部分がはじまります。そのはじめが「横超断四流」についての注釈です。

「横超断四流(しる、四つの激しい煩悩の流れ。また生老病死を指す)」といふは、横超とは、横は竪超(しゅちょう)、竪出(しゅしゅつ)に対す。超といふは、迂(う、遠回り)に対し、回(え、回り道)に対することばなり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便(ごんほうべん、権化方便の略。善巧方便に対して、能力の低いものを導くための仮の教え)の教、二乗三乗(声聞乗と縁覚乗が二乗。それに菩薩乗をあわせて三乗)迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり。すなはち三輩九品(大経に説かれる上輩・中輩・下輩が三輩。観経に説かれる上品上生から下品下生までが九品)定散の教(定善・散善の教え)、化土(けど、真実の浄土に対して仮の浄土)懈慢(けまん、化土の名称のひとつで、懈慢界のこと)、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次(ほんいかいじ)をいはず、一念須臾(いちねんしゅゆ、きわめて短い時間)のあいだに速やかにとく無上正真道(阿耨多羅三藐三菩提のこと。仏のこの上ない悟りの智慧)を超証す。ゆゑに横超といふなり。

横超断四流」ということばは、先の欲生釈において『観経疏』「玄義分」から引かれた文のなかに出ていました、「ともに金剛の志を発(おこ)して、横に四流を超断せよ」と。そしてさらに菩提心釈でも菩提心に竪すなわち自力と横すなわち他力の別があることが述べられていました。それをここでまたとり上げるのは「横超」という二文字に他力回向の信心の本質がよくあらわれているからでしょう。

「竪・横」、「超・出」の「二双四重」についても菩提心釈のところですでに言われていましたが、ここではいわゆる教相判釈として述べられていますので、あらためてその意味を確認しておきましょう。竪超すなわち自力の頓教は天台・華厳・真言・禅などを指し、竪出すなわち自力の漸教は法相・三論、さらには小乗の教えを指します。そして横超すなわち他力の頓教は第十八願の教えで、横出すなわち他力の漸教は第十九願・第二十願の教えです。


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菩提心 [「信巻を読む(2)」その31]

(7)菩提心

こちらに「わたしの心」があり、むこうに「ほとけの心」がある場合、「わたしの心」が「ほとけの心」に向かって往生を願うという構図になりますが、これではかならず往生できるという保証はどこにもありません。どれほど一所懸命に発願回向しても、ひょっとすると往生できないかもしれないという疑心から離れることができません。ここで再度先の「火と木の譬え」に戻りますと、火すなわち「ほとけの心」が、木すなわち「わたしの心」に点いた状態が信心でした。このとき、もう「ほとけの心」は「わたしの心」を離れることがありませんから、「わたしの心」と「ほとけの心」は「一心」になっています。ですから往生を願うそのとき「すでにつねに浄土に居す」のであり、これが「如実修行相応」ということです。

曇鸞は如実修行相応」とならないのは何故かと言えば、如来を実相身であると同時に為物身として感じることがないからだと難しい言い方をしていました。これを平たく言い直しますと、実相身としてあるだけでしたら「ほとけのいのち」はあちらに超然としてあり、こちらの「わたしのいのち」と別々になっているということです。同時に為物身であってこそ「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」のなかに来生しており(「従如来生」です)、「わたしのいのち」と「一心」になっているということです。だからこそ「よく衆生一切の無明を破し、よく衆生一切の志願を満てたまふ」のです。

さて親鸞は「一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ」と言った後、言い忘れたことがあるかのように、『摩訶止観』から「菩提心」の注釈を引いていますが、これも「一心」ということを「菩提心」ということばから裏づけようとしていると思われます。すなわち菩提心の元の梵語は「ボーディ・チッタ」で、「ボーディ」は「仏の智慧(菩提)」で「チッタ」は「心」ですから、「仏の智慧を求める心」という意味ですが、智顗が「心」を「慮知」すなわち「われらの分別知」であるとしていることに注目して、菩提心とは「ほとけの心(菩提)」と「わたしの心(慮知)」とが「一心」になっていることだと了解しているのです。


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