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不了仏智のしるしには [親鸞最晩年の和讃を読む(その63)]

            第8回 御ちかひをうたがふ

(1)不了仏智のしるしには

 正像末法和讃につづいて仏智疑惑和讃(誡疑讃)がはじまります。その第1首です。

 不了仏智1のしるしには
  如来の諸智2を疑惑して
  罪福信じ善本を
  たのめば辺地5にとまるなり(60)

 注1 仏の智慧(今の場合は本願)を明らかにさとらない(気づかない)こと。
 注2 仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智の五智。
 注3 善因善果・悪因悪果、因果応報を信じること。
 注4 称名を善因として往生しようとすること。
 注5 自力念仏の人が往生する方便化土。

 このうたは、『無量寿経』の終わりの方に「仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了(さと)らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生れんと願ふ」ものは方便化土に生まれると説かれている文がもとになっています。ここには「本願を信ずる」ことと「罪福を信ずる」ことのコントラストがはっきり出てきます。そして、本願を疑うことは罪福を信じることに他ならず、本願を疑い、罪福を信じることによっては真実報土に往生できないと言われていますが、その意味するところをきちんとおさえなければなりません。
 まずは「本願を信ずる」ことから。もう何遍おなじことを言ってきたか分かりませんが、これが肝心要のことですから、繰り返しを厭わず言いますが、本願を信ずるとは、どこかにある本願を真として取り込む(キャッチする)ことではありません。本願の声がどこからか届いた(聞こえた)ことに気づき、その声に鷲づかみされる(キャッチされる)ことです。ではその逆に「本願を疑う」とはどういうことか。それは「罪福を信ずる」ことに他ならないとされるのですが、いったいどうしてそうなるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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