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下至十声聞等 [『教行信証』「信巻」を読む(その83)]

(11)下至十声聞等


 善導が「下至十声一声等に及ぶまで」と言いますのは、「わずか十声、一声でも」念仏を申すことでかならず往生できるということですが、こう言うことで意味ははっきりするものの、その反面、これを読む人が称名ばかりに目を奪われ、聞名(すなわち信心)のことがお留守になってしまう怖れがあります。善導から法然へと受け継がれた「専修念仏」の教えは「ただ念仏するだけで往生できる」ということですが、この言い方には人を落とし穴に導く危険性があると言わなければなりません。そこで、繰り返しになることを厭わず、念仏と往生の関係についてあらためて述べておきたいと思います。


南無阿弥陀仏にはあらゆる徳が詰め込まれていると言われます。だからそれを「わずか十声、一声でも」称えることで往生できるのだとされるのですが、そのさい見落としてならないのは、徳の詰まった南無阿弥陀仏は、それをわれらが称えるより前に、むこうから聞こえてくるということです。南無阿弥陀仏にはすばらしい徳がつまっていると言えるのは、その「こえ」が聞こえてきてわれらにかけがえのないはたらきを及ぼすからです。すなわち「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という如来の「ねがい」が南無阿弥陀仏の「こえ」というかたちでわれらに届けられることで、われらは「ほとけのいのち」のなかに摂取不捨されるということです。


南無阿弥陀仏にはこの不可思議なはたらきがあることを指して、他には代えることのできない大いなる徳があると言われるのですが、それがともすると南無阿弥陀仏の六文字にあらゆる徳が詰まっているから、それを称えることで大きなご利益を得ることができると受けとられるのです。南無阿弥陀仏と称えることにご利益があるのではありません、南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえ、それにわれらが摂取されること自体がかけがえのないご利益なのです。ではわれらが南無阿弥陀仏と称えるのは何かといいますと、それは、もうすでに「ほとけのいのち」に摂取されたという慶びが口をついて出たものです。


念仏により摂取不捨されるのではありません、もうすでに摂取不捨されたというしるしが念仏です。


                                                   (第8回 完)



タグ:親鸞を読む
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