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なんぢ独りいかんぞ罪を得んや [「信巻を読む(2)」その108]

(11)なんぢ独りいかんぞ罪を得んや

いよいよ阿闍世は釈迦にあい、釈迦のことばを聞くことができます。ここから釈迦の長い説法がはじまります。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るは、すなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せよと勅せず、ただ足を削れ(禁足して幽閉せよ)といへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。座の時に(即刻)すなはち斬るとも、なほ罪を得じ(命じただけだから)。いはんや王勅せず。いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅(びんばしゃら)、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために(国を奪おうとして)害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

前半はあまり心に響きません。自分で手を下さず、臣下に命じただけだから罪は軽いというのですが、そうでしょうか。むしろ命じられて手を下したものよりも、命じたものの方が罪は重いのではないでしょうか。ただ心に思うだけで実際には何もしない場合と、思うだけでなくそれを実行に移す場合でしたら、前者は軽く、後者は重いと言えるでしょうが、いずれにせよこの箇所はピンときません。それに比べて後半はズシンと心に響きます。阿闍世に罪があるなら、諸仏如来にもまた罪があるはずである、「なんぢ独りいかんぞと罪を得んや」というのですが、ここには深く心を潜めなければならないことがあると思われます。


タグ:親鸞を読む
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