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惑染の凡夫、信心発すれば [『歎異抄』ふたたび(その72)]

(2)惑染の凡夫、信心発すれば

 『華厳経』に「十方の無礙人、一道より生死を出でたまへり」とあるのは、仏のことを言っていますが、その一方で、「念仏者は無礙の一道なり」と言い、「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」と言われますと、もう仏と念仏者あるいは信心の行者との境界線がほとんど消えています。念仏者といい信心の行者といえども、依然として「惑染の凡夫」であることには変わりありませんが、その「惑染の凡夫」が「信心を発すれば」、もう仏とひとしくなるというのです。これをどのように理解すればいいのでしょう。
 仏と凡夫について、しばしば仏は無分別智の世界(生死一如の世界)にいるが、凡夫は分別知の世界にいると言われます。ぼくはこのような説明を聞くたびに、そのように言われるあなたはどこにおられるのですかと問いたくなります。むこうに仏の無分別智の世界があり、こちらにわれらの分別知の世界があるとすれば、そのように言う人はどこにいるのかと心が引っ掛かってしまうのです。その人がこちらの分別知の世界にいるとしますと(そうとしか考えられませんが)、どうしてむこうに無分別智の世界があると分かるのでしょう。まったき闇の世界にいる人が、むこうに光の世界があることがどうして分かるのか。
 こちらに光がさし込んではじめて光の世界の存在が分かるのであり、こちらに光が届いているということは、こちらはすでにまったき闇の世界ではないということです。
 光と闇が背反するのは当たり前ですが、光の気づきと闇の気づきは背反しないどころか、ひとつであることをあらためて確認しておきたいと思います。光を光と気づくことは、取りも直さず闇を闇と気づくことであり、闇を闇と気づくことは、そのまま光を光と気づくことです。光を光と気づいている人が、闇を知らないということはありえず、また闇を闇と気づいているのに、光を知らないということもありえません。光に気づいていない人は闇にも気づいていず、闇に気づいていない人は光にも気づいていません。その人にとってこの世界は光の世界でも闇の世界でもなく、ただのノッペラボーです(神が「光あれ」と言われる前の世界は、光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもありません、ノッペラボーの世界です)。

タグ:親鸞を読む
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