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弥陀の声? [『正信偈』を読む(その132)]

(7)弥陀の声?

 ここで改めて疑問が出されるかもしれません、弥陀の声が聞こえると言うけれども、どこから、どんなふうに聞こえてくるのか、と。
 聖書を読みますと、神はいわゆる預言者たちにさまざまに語りかけています。例えば創世記の中にこうあります、「神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(はんさい、生贄のこと)としてささげなさい』」。
 これをみますと、アブラハムにとって神の姿は見えなくても、これは神の声だとはっきり認識されています。どこかから(多分、天上から)、姿は見えないけれども、何か特別な声が聞こえるのでしょう。そしてアブラハムには、これは神が自分に呼びかけられているのだと分かる。だからこそ直ちに「ここにおります」と応答するのです。
 さてしかし、「なむあみだぶつ」の声はそのような特殊な声ではありません。それは目の前にいるごく普通の人間の声です。ときには動物の声かもしれず、あるいは自然の音(鳥の声、風の音など)かもしれませんが、とにかく超自然的・神秘的な声ではありません。よく浄土の教えはアブラハムの宗教に似ていると言われますが、ここにはっきりした違いがあります。
 あるとき誰かの何気ないひと言が「なむあみだぶつ」と聞こえる、「帰っておいで」と聞こえるのです。それは妻かもしれませんし、友人かもしれません、あるいは見ず知らずの他人のこともあるでしょう。そしてその声は「ありがとう」かもしれませんし、「こんにちは」かもしれません、とにかくごく普通のことばが「なむあみだぶつ」と聞こえる。それが弥陀の声に他なりません。

             (第18章 完)

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