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「『証巻』を読む」その2 ブログトップ

本文1 [「『証巻』を読む」その2]

(2)本文1

巻頭に「必至滅度の願」、「難思議往生」とありますが、これは「行巻」の巻頭に「諸仏称名の願」、「浄土真実の行、選択本願の行」とあり、「信巻」の巻頭には「至心信楽の願」、「正定聚の機」とありましたように、それぞれの巻が依拠する願(標挙の願といいます)を上げるとともに、その巻を象徴することばが冒頭に掲げられているのです。「必至滅度の願」はこの後すぐ出てきますからそこに譲るとしまして、「難思議往生」についてひと言しておきましょう。

親鸞は善導の『法事讃』に出てくる「難思議往生」、「双樹林下往生」、「難思往生」ということばに注目し、この三つの往生をそれぞれ『大経』、『観経』、『小経』が説く往生であるとします。そして親鸞は『大経』に「真実の教」が説かれていると考えますから、「難思議往生」が真実の往生で、「双樹林下往生」、「難思往生」は方便の往生であるとします(方便の往生は「化身土巻」の主題となります)。ですから巻頭に「難思議往生」と掲げられたということは、この巻では信心念仏の果として得られるものは、真実の往生としての「難思議往生」であることを表明しているということです。

さていよいよ本文です。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅(ひっきょうじゃくめつ)なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。

この文は親鸞がこれから「証」を明らかにするにあたり、その総説として述べているものです。


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