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信は願より生ずれば [親鸞の和讃に親しむ(その69)]

(9)信は願より生ずれば

信は願より生ずれば 念仏成仏自然(じねん)なり 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず(第82首)

信は願より生ずれば、おのずからして成仏す。おのずからして往生し、涅槃をえるもうたがわず

この和讃はすべてが「自然」であることを詠います。「自然」とは、親鸞の有名な「自然法爾章(じねんほうにしょう)」に「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむるといふことばなり」(『親鸞聖人御消息』第14通)とありますように、「行者のはからひ(自力)」ではなく、本願力により「しからしむる」ということ、すなわち「他力」を意味します。まず「信は願より生ずれば」とは、われらに本願の信心がおこるのは「われらのはからい」によるのではなく「本願力」によるということです。もしわれらが本願をつかみ取るのが信心だとしますと、それは「われらのはからい」によりますが、何度も繰り返してきましたように、信心とはわれらが本願につかみ取られることですから、「本願力」によることは明らかです。

次に「念仏成仏自然なり」ですが、これは「念仏成仏これ真宗」という法照(ほっしょう、唐代の僧、五会念仏の祖)のことばに由っています(『浄土和讃』第71首にも出てきました)。これも、真実の信心を賜り、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」(『歎異抄』第1章)そのときに摂取不捨の利益にあづかることができ、「かならず仏となるべき身」である正定聚不退となるのですから、成仏するべく「おのづからしからしめ」られているわけです。

さて第三句の「自然はすなはち報土なり」(これは善導『法事讃』の「自然はすなはちこれ弥陀国なり」に由っています)が分かりにくい。まずもって浄土について、これをどこかに実在する世界とイメージするべきではありません。浄土も穢土もわれらの世界意識です。この世界をただひたすら「わたしのいのち」の世界と意識するとき、そこは穢土ですが、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」に包摂され生かされていると意識できたとき、そこに浄土がひらかれます。そして浄土という世界意識は「われらのはからい」によってではなく、ただ「本願力」によりひらかれます。これが「自然はすなはち報土なり」ということに違いありません。


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