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はじめての『教行信証』(その139) ブログトップ

2013年12月14日(土) [はじめての『教行信証』(その139)]

 真仏土巻はここで閉じられますが、改めて「信じる」ということについて考えておきたいと思います。
 善導は『観経疏』のなかで、深く信じることについて次のように述べています。多くの仏たちが現われて、念仏すれば浄土へ往くことができるなどというのは出鱈目だと言ったとしても、一念の疑いもないのがほんとうの深信であると。
 この部分は親鸞に強い印象を残したようで、彼は関東の弟子に宛てた書簡にこの話を持ち出しています。わが子・善鸞を巡るゴタゴタで苦労した性信房宛に、善鸞を義絶したことを報告する大事な書簡の中でこんなふうに言っているのです。
 「光明寺の和尚(善導のことです)の、信の様ををしへさせたまひさふらふには、まことの信をさだめられてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、そらにみちみちて、釈迦のをしへ、弥陀の本願はひがごと(まちがい)なりとおほせらるとも、一念もうたがひあるべからずとこそうけたまはりさふらへば云々」と。
 どんな文脈でこの話を出しているかと言いますと、親鸞は、関東の念仏者たちが善鸞ごときのいうことに振り回されて、これまで培ってきた念仏の真実の教えをあっさり捨ててしまうのはどうしたことかと嘆いているのです。本願を信ずるというのはそんな安っぽいことではないだろう、と。そこでほんとうの信とはどういうものかを示すために『観経疏』のこの箇所を引き合いに出しているのです。

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