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物語の上に立っていると語ろうとするとき [『ふりむけば他力』(その110)]

(6)物語の上に立っていると語ろうとするとき

 釈迦もまた「わがもの」の物語に囚われていたに違いありません。しかしあるとき、これは物語にすぎないのではないかと気づいた。それが釈迦35歳のとき、かれが菩提樹の下で「覚り(目覚め)」に至ったときです。この気づき、目覚めは釈迦に起りましたが、釈迦が自分で起こしたものではないことはすでに述べた通りです。気づこうとして気づけるものではありませんし、目覚めようとして目覚めることができるものではありません。ふと気づきに襲われるのです、思いがけず目覚めがやってくるのです。で、そのとき釈迦はどうしたか。彼はそのことを人々に伝えたくて仕方がなかったに違いありません。自分に訪れた悦ばしい便り(気づきとは便りです)を他の人に、とりわけ昔の修行仲間に伝えたくてうずうずしたはずです。
 さてしかし、これをどう伝えたらいいのか。自分でつかみ取ったことなら、こんなふうにしてつかみ取ったと語ればいいが、思いがけずむこうからやってきた気づきを他の人に伝えられるものだろうか。有名な「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」のエピソードはこの釈迦の躊躇いを言っているのではないでしょうか。釈迦が一向に自分の得た気づきを語ろうとしないのを見た梵天が「ぜひに」と勧めて、ようやく釈迦は語りはじめたというのですが、実は、釈迦自身語りたくて仕方がなかった。しかしどう語っていいのか見当がつかなかったということだと思うのです。で、ようやく昔の仲間のいるところ(鹿野苑)に赴き、自分の得た気づきを語りはじめるのですが(初転法輪です)、それはどのような語りだったでしょう。
 釈迦の得た気づきとは、われらがそれによって立っている「これは〈わがもの〉である」という観念は、ずっと前から語り継がれてきた物語にすぎないということです(因みに、「わがもの」の原点が「わがいのち」です。釈迦が「すでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか」というのはそういう意味です)。このように、われらは「わがもの」の物語の上に立っていることを語ろうとするとき、それをどう語ればいいでしょうか。それを考えるために、もういちど荘子の「胡蝶の夢」を想い起こしたい。荘子が胡蝶になった夢を見たとき、自分が胡蝶になった夢を見たのか、はたまた胡蝶が荘子になった夢を見ているのか、分からなくなったという話でした。

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