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訓詁学的議論をすれば [親鸞の手紙を読む(その67)]

(6)訓詁学的議論をすれば

 成就文の乃至一念を「信の一念」ととりますと、本願には乃至十念と行が説かれているのに(乃至十念が行であることは異論がないでしょう)、その成就文には信だけがあって行にはまったく触れられないというチグハグが生じることになります。また弥勒付属文の乃至一念が「行の一念」なのに、それとほぼ同じ趣旨の成就文の乃至一念が「信の一念」であるというのも頷けません。これらのことから成就文の乃至一念はやはり「行の一念」ととるべきではないでしょうか。
 ではどうして親鸞は「信の一念」を言うときに成就文を持ち出したのかと言われるかもしれませんが、親鸞はそこでは「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」の「乃至一念」よりもむしろ「聞其名号」に着目しているのではないでしょうか。「聞其名号」のそのときに「信心歓喜」するという点に「信の一念」の本質があることはすでに述べた通りです(4)。親鸞は「信巻」において「信の一念」を言うために、この成就文だけでなく、『如来会』(『大経』の異訳です)から二文、そしてさらに『大経』の「その仏の本願力、みなをききて往生せんとおもはん」という「東方偈」の一節を引用していますが、共通して「みなをききて」にポイントがあります。
 以上わずらわしい訓詁学的議論をしてきましたが、そんなことより、親鸞がいちばん言いたいのは「信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし。行の一念をはなれたる信の一念もなし」ということであり、そこに議論の本質があります。たしかに経典のあるところでは「信の一念」が強調され、別のところでは「行の一念」に注目されているとはいえ、いずれもひとつのことを言っていると主張しているのです。だとしますと、成就文は「信の一念」であり、付属文は「行の一念」であって、両者をはっきり分けなければならないと言うことにどれほどの意味があるでしょう。成就文の乃至一念は「行の一念」であると言ってきましたが、それはしかし「行の一念」であると同時に「信の一念」でもあると言わなければなりません。

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