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縁起ということ [「親鸞とともに」その61]

(4)縁起ということ

これが自立の構図であり、われらはこの構図のもとで生きているのですが、これに対して、はたしてそうかと疑問を呈するのが釈迦です。まずAがあって、しかるのちにBCDとのつながりがあるのではなく、まずBCDとのつながりがあって、はじめてAがあるといえるのではないかと。つまりAなるものはそれ自体として存在しているわけではなく、BCDとのつながりがAをつくっているではないのかということです。ある人間が何者であるかを明らかにしようとするとき、その人間をどれほど凝視しても何も出てきません。その人間が何者であるかは、その人がどのような人たちとつながっているかを見ることではじめて浮かび上がってきます。

としますと、Aなるものがそれとしてどこかにいるのではなく、BCDたちとのつながりそのものがAであるということになります。これが釈迦の縁起の思想です。この縁起の構図では、すべてのいのちが無尽につながりあって一つになっています。先の自立の構図では、主としての「わたしのいのち」が、他のいのちたちを客としてしたがえるというように、そこには主客の対立がありますが、この縁起においてはあらゆるいのちが無尽のつながりのなかにあり、主も客もなく一つにつながりあっています。これが一味平等ということで、親鸞の印象的なことばでは「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり」となります。

さて、この構図のなかに身をおきますと、自他の優劣の差はどんなふうに映ってくるでしょう。自分が他より劣っていることは悲しいことに違いなく、他より優れていることは嬉しいことに違いありませんが、しかし他より劣っているからといって、「なんで自分が」と嘆き、「これは理不尽ではないか」と人を妬むでしょうか。また他より優れているからといって、「どうだ、見たか」と高飛車になり、人を見下すようなことになるでしょうか。そうは思えません、「そうか、自分は他より劣っているんだ(優れているんだ)」とその事実を虚心平気に受け止めるに違いありません。なぜなら、縁起の法においては、それぞれのいのちの間にどれほど優劣の差があろうとも、みなひとつにつながっているのであり、みな一味平等ですから。


タグ:親鸞を読む
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