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ひかりはすでにここに [はじめての『尊号真像銘文』(その153)]

(3)ひかりはすでにここに

 いのち終わってからはともかく、生きている限り煩悩を断ずるなどということは考えられません。したがって文字通りの涅槃に至るということも考えられません。われらにできるのは、生きるとは煩悩を生きることだと気づくことだけです。しかもこの気づきは自分で得ることはできません。生まれてこのかた煩悩の世界に生きてきたわれらは、ここが煩悩の世界だと知ることはかないません。『論註』に「蟪蛄(けいこ、ひぐらし蝉のこと)、春秋を知らず、伊虫(いちゅう、この虫)あに朱陽(夏)を知らんや」という印象的なことばがありますが、夏しか知らないひぐらし蝉は自分が夏を生きていることを知ることはできません。それは気づかせてもらうしかないのです。
 どのようにして煩悩に気づかせてもらうかといいますと、涅槃のひかりに遇うことによってです。あるとき南無阿弥陀仏の声が聞こえ、涅槃のひかりに遇うことができる。これが「よく一念喜愛の心を発すれば」ということで、そのときのことを曇鸞的に「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」と言っているのです。「涅槃を得る」をそのまま文字通りに受けとることはできません。それは涅槃のひかりに遇ったということであり、涅槃のひかりに遇うことは、涅槃を得たことにひとしいのです。
 親鸞は正定聚あるいは等正覚ということばを大事にしますが、正定聚とは「涅槃に至ることがさだまった身」ということであり、等正覚とは「仏のさとりにひとしい位」ということです。この「さだまる」とか「ひとしい」という言い回しに信心の人の微妙なありようをみようとしているのです。いまだ「涅槃を得る」ことはできなくても、すでに「涅槃にさだまっている」のであり、「涅槃を得ているのにひとしい」ということです。涅槃そのものはずっと先であっても、すでに「涅槃にさだまっている」のであり、もう「涅槃を得ているのにひとしい」のです。
 金子大栄氏はこう言っていました、月はずっとかなたにあっても、月のひかりはすでにここにきていると。そのように涅槃そのものはかなたでも、涅槃のひかりはすでにここにあるのです。正定聚や等正覚とよばれるのは、涅槃のひかりを浴びながら涅槃への道を歩みつづける旅人たちです。

タグ:親鸞を読む
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