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わがこころのよくてころさぬにはあらず [『ふりむけば他力』(その53)]

(4)わがこころのよくてころさぬにはあらず

 親鸞と唯円の師弟関係がいかに親密で肩ひじ張らないものであったのかがよく伝わってくる対話ですが、親鸞はこう結論づけます、「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と。ここに宿業の思想が語り尽くされています。「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」の一文が全体をびしっと締めています。
 さてしかし、ここに深刻な疑問が浮上してきます。よきこころの起るのも、わろきこころの起るのも、みな宿業のなせるわざであるとしますと、われらは宿業に操られるばかりで、自由が一切なくなるではないかという疑問です。宿業の思想はいわゆる宿命論(あるいは運命論)に他ならず、すべてはすでに決定されていて、われらはただそれに操られて生きるしかないということになるのではないかということです。さてさて宿業の思想と宿命論は同じでしょうか、それとも違うのでしょうか。違うとすればどこがどう違うのか、この問題を考えたいと思います。
 頭に浮ぶのがカルヴァンの予定説です。彼はルターとともに宗教改革の立役者として歴史に名をのこした人ですが、その特徴的な思想が予定説です。それによりますと、われらひとり一人が天国にいけるか、それとも地獄におちるかは、あらかじめ(われらが生まれる前から)神によって決定されており、それをわれらが変えることはできません。人が救われるかどうかは、われらの努力や能力によるのではなく、ひとえに神の恩寵によって決まるということです。われらにできるのは、自分は救済に与ると信じて、神の栄光のために額に汗して働くことだけであると言うのです。
 予定説は救われるかどうかが予定されていると説くだけですが、宿業の思想はもうあらゆることがすでに決定されていると説くのでしょうか。よいこころの起るのも、わるいこころの起るのも、あらかじめ決定されており、われらはただそれに流されて生きるしかないのでしょうか。

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