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名号のリレー [「『正信偈』ふたたび」その117]

(10)名号のリレー

さて次に釈迦と「弘経の大士・宗師等」のことです。われらが救われたのは弥陀の本願の力ですが、しかしそれは釈迦が本願の教えを説いてくださったからであるように、われらは釈迦の教え(仏説)によって救われたものの、しかしそこには「よきひと」たちのはたらきがありました。法然は善導という「よきひと」と廻りあえたからこそ、本願の教えに目覚めることができ、親鸞もまた法然という「よきひと」と遇うことで、本願に遇うことができたわけです。何度も言いますように、「いのち、みな生きらるべし」という弥陀の「ねがい」は、南無阿弥陀仏の「こえ」としてわれらひとり一人のもとに届けられるのですから、南無阿弥陀仏の「こえ」を発する「よきひと」がいたからこそ、われらは本願に遇うことができたのです。

本願はこのように名号のリレーとして人から人へと受け渡されていくという構造があります。

それを言い表してくれたのが『歎異抄』第2章の次のことばです、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。同じ第2章に親鸞は法然聖人から名号を受け渡してもらったことをこう述べます、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。このなかの「ただ」はすぐ後の「念仏して」にかかりますが、同時に、少し先の「信ずる」にかかると見るべきでしょう。わたし親鸞としては、法然聖人から「念仏して弥陀にたすけられよ」と言われたことを「ただ」信じるだけで、それ以外に特に何かがあるわけではありませんということです。

悠久の歴史のなかで連綿と受け継がれてきた名号のバトン受けとることでわたしは救われたのですから、そのバトンをまた誰かに受け渡すだけですと親鸞は言っているのです。だから「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」となります。

(第12回 完)


タグ:親鸞を読む
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