SSブログ
『歎異抄』を聞く(その3) ブログトップ

全体の構成 [『歎異抄』を聞く(その3)]

(3)全体の構成

 以上のことから、この書物の構成をまとめておきますと、
 
  序             ―書物全体の趣旨
  第1章から第10章の途中まで―「故親鸞聖人の御物語」(語録)
  中序(第10章の後半)   ―異義批判の趣旨
  第11章から第18章まで  ―「上人のおほせにあらざる異義ども」の批判
  後序            ―全体の結語

 この構成から、この書物は、まず「故親鸞聖人の御物語のおもむき」を「耳の底に留まる」ままにあげた上で、後半で「先師の口伝の真信に異なること」がまことしやかに説かれているのを嘆いてその一つひとつを批判していることが分かります。後序の末尾に記されていることばを読み、そのことを再確認しておきましょう。

 これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈のゆくぢもしらず、法文の浅深をこころえわけたることもさふらはねば、さだめておかしきことにてこそさふらはめども、古親鸞のおほせごとさふらひしをもむき、百分が一、かたはしばかりをもおもひいでまいらせて、かきつけさふらふなり。かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直(じき)に報土にむまれずして辺地(へんじ)にやどをとらんこと。一室の行者のなかに信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめて、これをしるす。なづけて歎異抄といふべし。外見(がいけん)あるべからず。

 (現代語訳) ここに書きましたことは、わたくしが勝手に申していることではありませんが、経釈の確かな意味も知らず、教えの深い道理を心得ているわけでもありませんので、きっとおかしいところもあるだろうと思いますが、親鸞聖人の仰せられたことがらの百分の一、わずかばかりではありますが、思い出しながら書きつけました。悲しいことではありませんか、幸いにも念仏しながら、ただちに真実の報土に往生できず仮の辺地にとどまるとしましたら。同門の行者のなかで信心が異なることのないようにと思い、涙ながらにこれを書きました。名づけて歎異抄といたします。外部にはお見せにならないよう。

 ここに著者の真情があふれています。間違った説を「批判する」というよりも、親鸞聖人が言いもしないことが言ったかのようにまかり通っていることを「歎く」気持ちからこの書をのこしたことがよく伝わってきます。まさに「歎異抄」です。

タグ:親鸞を読む
『歎異抄』を聞く(その3) ブログトップ