SSブログ
「親鸞とともに」その29 ブログトップ

帰命は本願招喚の勅命なり [「親鸞とともに」その29]

(5)帰命は本願招喚の勅命なり

「帰説」の説を悦(えつ)と読むときには「よろこぶ」の意となり、税(さい)と読むときには「くつろぐ」の意となりますから、帰という字には、至るべきところに至って「よろこび」、また「くつろぐ」という意味があるとするのです。そこから親鸞は「帰説(きえつ)」に対して「よりたのむなり」と注を入れ、「帰説(きさい)」には「よりかかるなり」と左訓しています。かくして帰という字の意味内容が豊かになりましたが、これで終わりではありません、大事なことはこの後です。すなわち「悦(えつ)」と読み「税(さい)」と読んだ「説」は、また「告(つぐる)なる、述(のぶる)なり、人の意を宣述する」ということであると言います。帰とは、帰るべきところに帰り、「よろこび」、「くつろぐ」ということだけではなく、そうするように「告げる」こと、「述べる」ことが含まれているというのです。

それがさらに「帰命」の「命」の意味として取り出されます。「命」を漢和辞典で調べますと、これはもともと「人を集めていいつける」という意味であるとありますが(命は「いのち」でもあることについては、後で考えたいと思います)、ここではそれが「業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計(はからう)なり、召(めす)なり」と言われているのです。これらはみな如来がわれらに来たれと呼びかけることを示しており、「業」とは如来の「おこない」を意味し、「招引」は如来がわれらを「招き引き入れる」こと、「使」は使役で如来の命を使者に伝えさせるということ、「教」は文字通りわれらを「教える」こと、「道」は「言う」こと、「信」は「たより」で、「計」は「はからい」、そして「召」は先の「招引」と同じです。

このように帰命とは、まずはわれらが如来に帰する(帰るべきところに帰る)ことを意味しますが、しかしそれに先立ち如来からわれらに帰するよう命じられている(告げられ、述べられている)ことが明らかにされるのです。かくしてこう結論されることになります、「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と。帰命とは本願がわれらを招き喚ぶ「こえ」であるということです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その29 ブログトップ