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まさに三福を修すべし [『観無量寿経』精読(その16)]

(4)まさに三福を修すべし

 先に、釈迦は韋提希に「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、此を去ること遠からじ」と言っていましたが、ここでも「なんぢいま、知れりやいなや」と繰り返されていることに注目したいと思います。この三福こそ「過去・未来・現在、三世の諸仏」が成仏された正因であることをあなたは知っているでしょうか、と尋ねているのですが、ここには、先の韋提希の口から漏れたことばに対する釈迦の気持ちの反映があるように感じられます。
 韋提希は「世尊、われ宿(むかし)、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多と眷属(けんぞく)たる」と愚痴をこぼし、「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」と述べていました。「わたしには何の罪もありませんのに、どうしてこんなにひどい悪人に囲まれていなければならないのでしょう」と嘆く韋提希に、「あなたは周りのことばかり言いますが、あなた自身はどうでしょう、ほんとうに罪がないと言えますか」と反問しているのではないでしょうか。
 それが「過去・未来・現在、三世の諸仏」はみな三福を修することで仏になったのですよ、それをあなたは知っていますか、ということばとなってあらわれているのではないかと思うのです。このすぐ後で、釈迦が韋提希に「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ、弱く劣っている)にして」と述べるところがありますが、自身は凡夫であり、心想羸劣であることを自覚しているかどうか、これが「憂悩なき処」に入るうえで決定的であることを匂わしているに違いありません。阿弥陀仏は「此を去ること遠からじ」ですが、その「アミタのいのち」に遇おうとすると自身の心想が如何に羸劣であるかに気づかなければならないということです。
 「まさに三福を修すべし」ということばには「なんぢ自身を知れ」という思いが込められているに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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