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ほとけに帰る [「親鸞とともに」その115]

(9)ほとけに帰る

大乗の「ほとけ」たちとして代表的な毘盧遮那仏(大日如来)、薬師如来、阿弥陀仏などは「目覚めた人」というもとの意味から離れ、世界の真如そのもの、あるいは、世界そのものを象っているとされます。浄土の教えで「ほとけ」と言えば阿弥陀仏ですが、これは前にも見ましたように、「無量のいのち(アミターユス)」あるいは「無量のひかり(アミターバ)」を意味し、本願のはたらき(本願力)をそのような形で人格あるものとして表し、それに阿弥陀仏という名を与えているのです。

「ほとけ」の意味の変遷として、もう一つ考えておかなければならないのが「涅槃」との関係です。「ほとけ」は「目覚めた人」であると同時に、目覚めることにより「涅槃に入った人」という意味をもっていますが、涅槃とは煩悩が消えた状態をさしますから、この世に生きたままで涅槃に至ることができるとは考えにくく、「ほとけ」となるのはいのち終わってからとされるようになります(即身成仏思想は次第に力をなくしていきます)。このように、死んだのちに「ほとけ」となることから、死んだ人を「ほとけ」というようになったわけです。

ただ、死んだ人を「ほとけ」というと言っても、死んだ人ひとり一人が各別の「ほとけ」になるわけではなく、みなひとつの「ほとけ」になるのです。これまで「ほとけのいのち(無量のいのち)」に帰ると言ってきたのはそのことで、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」としてのそれぞれの戸籍が終わりを迎えるときに、「ほとけのいのち」というただ一つの本籍に帰っていくのです。そして、大事なことは、そのことにおいて何の隔てもないということです。生きとし生けるものみなが、「わたしのいのち」の終わりを迎えるとき「ほとけのいのち」に帰るのです。

ときどき、誰でも死んで「ほとけ」となるのではなく、なれる人となれない人があるといわれます。たとえば『法華経』を信じる人は「ほとけ」になれるが、そうでない人はなれない、あるいは、弥陀の本願を信じる人は「ほとけ」になれるが、そうでない人はなれない、などと。このようなかたちで宗教独特の排他性が生まれてきますが、この問題を最後に考えておきましょう。


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