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弘経の大士・宗師等 [「『正信偈』ふたたび」その115]

(8)弘経の大士・宗師等

七高僧を讃える偈文が終わり、最後の締めの部分です。

弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪

道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済(じょうさい)したまふ。

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

これまで名前をあげてきました七人の「よきひと」たちは、数限りない濁りと悪に満ちたものたちを救いとってくださいました。

みなさん、僧も俗も心をひとつにして、ただこの高僧たちの言われることを信じてまいりましょう。

「正信偈」全体の流れをふり返っておきますと、前半が「依経段」とよばれ、経典、とりわけ『大経』にもとづいて本願名号の教えの要諦が説かれ、後半が「依釈段」で、高僧たちの論釈をもとにその教えがどのようにリレーされてきたかが述べられました。そしてこの最後の段で、この「弘経の大士・宗師等」の教えによりどれほど多くの人たちが救われてきたかと言われ、みな御同朋、御同行としてこの高僧たちの教えを信じましょうと締め括られます。

弥陀の本願の教えを釈迦が説き(「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」)、そしてそれを高僧たちが世に弘められた(「印度西天の論家、中夏・日域の高僧、大聖‐釈迦‐興世の正意を顕し、如来‐弥陀‐の本誓、機に応ぜることを明かす」)ということですが、この弥陀と釈迦と高僧たちとの関係についてあらためて思いを廻らせておきたいと思います。ここに聖道門諸宗と根本的に異なる浄土門の特異性があると思われるからです。

聖道門では釈迦の教えがあり、それを高僧たちが伝えていくという二層構造ですが、浄土門ではまず弥陀の本願があり、それを釈迦が説き、それをさらに高僧たちが伝えていくという三層構造となります。そして釈迦と高僧たちは時間のなかの存在(有量のいのち)ですが、弥陀は時間を超えた存在(無量のいのち)です。弥陀はどんな過去よりももっと過去からの存在、永遠の過去からの存在です。


タグ:親鸞を読む
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