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自然法爾(じねんほうに) [『ふりむけば他力』(その11)]

(6)自然法爾(じねんほうに)

 自力と他力に戻りましょう。仏教語としての自力と他力は、「自力か、さもなければ他力」ではなく、「自力であり、かつ他力」という関係にありますが、そのことが「能動か、さもなければ受動」ではなく「能動であり、かつ受動」である中動態と重なることに注目してきました。われらが何をなすにせよ、それを意識的にしている限り「わたし」がそうしようと思ってしているに違いなく、その意味では自力(能動)であるのですが、しかしそうしようと思うこと自体がすでに見えない力ではからわれており、その意味において他力(受動)と言わなければならないということです。
 このように事態が中動態的であることは日本語の言い回しのなかにも見て取ることができます。
 よく言われることですが、「自」という文字を副詞として読むとき、「みづから」と読む場合と「おのづから」と読む場合があります。「自」という漢字は人間の鼻を象形しており、鼻をさして自分を示すことから他人に対する自分を意味するのですが、それを日本語に訓読するときに「みづから」と「おのづから」に分かれるのです。そして「みづから」と読むときは「自分自身で」という意味になり、「おのづから」と読むときは「自然に」あるいは「ひとりでに」という意味で、自分のはからいではないということです。これがどちらも「自」であるということは、「みづから」と「おのづから」は背反するものではなく、「みづから」は「みづから」でありながら同時に「おのづから」であることを示していると見ることができます。
 親鸞はこの「おのづから」に注目して、他力とは「自然(じねん)」であるとします。最晩年の文章(というより、弟子の顕智が親鸞から聞き書きしたものですが)に「自然法爾章(じねんほうにしょう)」とよばれるものがあります。「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり」。他力とは「自然」ということであり、それは「行者のはからひ」ではなく「おのづからしからしむる」ことであると諄々と説き聞かせています。

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