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上品下生 [『観無量寿経』精読(その72)]

(5)上品下生

 次は上品下生です。

 上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗らず。ただ無上道心(この上ないさとりを求める心、菩提心のこと)を発(おこ)す。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。行者命終わらんとする時に、阿弥陀仏、および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに金蓮華を持たしめて、五百の化仏を化作してこの人を来迎したまふ。五百の化仏は、一時に手(みて)を授けて讃めてのたまはく、法子、なんぢいま清浄にして無上道心を発せり。われ来りてなんぢを迎ふと。この事を見る時、すなはちみづから身を見れば金蓮華に坐す。坐しをはれば華合す。世尊の後(しりえ)に随ひて、すなはち七宝の池のなかに往生することを得。一日一夜にして蓮華すなはち開け、七日のうちにすなはち仏を見たてまつることを得。仏身を見たてまつるといへども、もろもろの相好において心明了ならず。三七日(21日)の後において、すなはち了々に見たてまつる。もろもろの音声を聞くにみな妙法を演(の)ぶ。十方に遊歴(ゆりゃく)して諸仏を供養す。諸仏の前(みまえ)にして甚深の法を聞く。三小劫を経て百法明門(ひゃっぽうみょうもん、菩薩が初地において得る法門)を得、歓喜地に住す。これを上品下生のものと名づく。これを上輩生想と名づけ、第十四の観と名づく」と。

 九品の往生人の功徳の差に応じて、それぞれが往生してからのありようは大きく異なりますが(上品中生では蓮の華は一夜にして開くのに対して、この上品下生では一昼夜を要し、また中生では華が開いてすぐ仏を見ることができるのに対して、下生では七日を要する等々という具合に)、その一方で、臨終に阿弥陀仏や観音・勢至などの来迎を受け、一瞬のうちにかの国に往生するということではまったく違いません。すなわち臨終が点であることに応じて、往生も点であると思念され、往生とは一種のテレポーテーション(瞬間移動)であるわけです。

タグ:親鸞を読む
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