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真実心のうちになしたまひしを須ゐよ [『教行信証』「信巻」を読む(その106)]

(10)真実心のうちになしたまひしを須ゐよ

その上で善導は言います、「不善三業必須真実心中捨」と。これは普通には「不善の三

業はかならずすべからく真実心のうちに捨てるべし」と読みます。われらのなす「雑毒の行」は真実の心をもってきっぱりと捨てるべきであるということです。ところが親鸞はこれを「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」と意表をつく読み方をするのです。またつづく「起善三業者必須真実心中作」も、「善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし」と読むのが普通ですが、親鸞は「善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐよ」と読みます。

二つの読みの違いは明らかでしょう。普通の読みでは、われらは法蔵菩薩に見習い、真実の心で「不善の三業」を捨て、「善の三業」をなさなければならないということで、常識に沿った自然な理解です。しかし親鸞の理解では、われらにはもともと真実の心など薬にしたくてもありませんから、真実の心で捨てるのも、真実の心でなすのもわれらではなく法蔵菩薩とならざるを得ません。そしてわれらとしては、法蔵菩薩が真実の心で捨てられ、真実の心でなされたことをそのままいただくしかないということになります。かくして、読み方として不自然であっても、「真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」、「真実心のうちになしたまひしを須ゐよ」と読むしかありません。

大事なことは、親鸞にとってこの理解は善導の文を自分勝手に読み替えているのではなく、これが善導の真意であるということです。どうしてかと言いますと、すでに善導は深心釈において「機の深信」を上げていました、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」と。これは、すぐ上のところで見ましたように、まさに自力無功の気づきに他なりません。罪悪生死の凡夫が、頭燃をはらふがごとく三業に励もうと、それは所詮、雑毒の行であり、それによって往生を得ることは不可であるという自覚です。とするならば、われらとしては法蔵菩薩が「真実心のうちに捨てたまへるを須ゐ」、「真実心のうちになしたまひしを須ゐる」しかないではありませんか。


タグ:親鸞を読む
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