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五濁悪世の衆生の [親鸞の和讃に親しむ(その80)]

(10)五濁悪世の衆生の(結讃)

五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり(第118首)

五濁悪世に生けるもの、弥陀の本願信ずれば、ことばにならず不可思議の、功徳は行者つつみこむ。

先の和讃で「疑情のさはり」により、本願を信ずることは「かたきがなかになほかたし」と詠われましたが、この和讃では「選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」と詠われ、「疑情」と「信楽」のコントラストが鮮やかです。『歎異抄』第3章で「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」と言われますが、その「自力のこころ」と「他力をたのみたてまつる」こころのコントラストです。この「疑情」から「信楽」への転換、「自力」から「他力」への転轍に思いを潜めてみたいと思います。そのとき何が起こっているのかと言いますと、実は二つの気づきが起こっています。一つは「わたし」への囚われ(我執)の気づきで、もう一つは「本願他力」の気づきです。

「わたし」への囚われと言いますのは、まず「わたし」という実体があり、それが何かを「思う」ことがすべての第一起点となっているという思い込みのことです。この思い込みに哲学的な表現を与えたのがデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」です。「わたし」が何かを思う、それがすべての始まりであるということです。これはある人(デカルト)がそう思っているというのではありません、もうあらゆる人が意識することなく、そのように思い込んでいるということです。「わたし」が何かを思うから「わたし」はあるのであり、逆に言いますと、「わたし」が何かを思うことがなくなればもう「わたし」はなくなるという思い込みです。それは「わたし」から何かを思うことがすべて奪われたらどうだろうと想像してみればおのずと頷けるのではないでしょうか。

さてしかしあるとき、これは思い込みではないかという気づきが起こるのです。「わたし」は確かにいつも何かを思っています。でもそれがすべての始まりであるというのは囚われではないかという気づきです。この気づきは「わたし」に囚われているという気づきに他なりませんが、これは「わたし」から起こることはありません、これまで繰り返し述べてきましたように、それは「わたし」の外からやってきます。「わたし」に囚われているという気づきは、これは外からやってくるというもう一つの気づきを伴っており、それが「本願他力」の気づきです。「わたし」への囚われ(我執)の気づきと、「本願他力」の気づきは二つにして一つです。

(第8回 完)


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