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『歎異抄』を読む(その193) ブログトップ

11月25日(日) [『歎異抄』を読む(その193)]

 親鸞の書いたものに『唯信鈔文意』というのがあります。法然の高弟に聖覚という人がいて、その人の書いた『唯信鈔』という書物を親鸞が高く評価しており、関東の弟子たちにそれを読むよう繰り返し薦めているのですが、和文とはいえ、普通の人には難しい書物ですから、読みやすくしようというねらいで書かれたのが『唯信鈔文意』です。その中に仏とは何かについての興味深い記述があります。
 「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。」
 「微塵世界に」とは「世界中の隅々まで」という意味です。「一切群生海」とは「生きとし生けるもの」ということですから、この文章は、如来というのは、「ここ」とは違うどこか「かなた」におわすのではなく、この世界の隅々に満ち満ちておわし、つまり生きとし生けるものの心が如来なのだということです。
 ぼくらはどうしても浄土や仏を実体として捉えてしまいます。実体としてというのは、時間・空間の中にあるものとしてということです。この娑婆世界とは別のどこか「はるかかなた」、「西方十万億土のかなた」に浄土があり、そこに仏がおわすと考えてしまうのですが、親鸞はそのような見方を激しく揺さぶるのです。仏は「ここ」とは別のどこか「かなた」におわすのではなく、一切衆生の心こそ仏ですと。
 この微妙な言い回しで何を言わんとしているのでしょう。

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