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第10通 [『末燈鈔』を読む(その87)]

(6)第10通

 第10通に進みます。

 御ふみくはしくうけたまはり候ぬ。
 さては御法門の御不審に、一念発起信心のとき無碍の心光に摂護せられまいらせ候ゆへ、つねに浄土の業因決定すとおほせられ候。これめでたく候。かくめでたくはおほせ候へども、これみなわたくしの御はからはひになりぬとおぼえ候。たゞ不思議と信ぜさせたまひ候ぬるうへは、わづらはしきはからひあるべからず候。
 またあるひとの候なること、出世のこゝろおほく浄土の業因すくなしと候なるは、こゝろえがたく候。出世と候も、浄土の業因と候も、みなひとつにて候なり。すべてこれなまじゐなる御はからひと存じ候。仏智不思議と信ぜさせたまひ候なば、別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候。たゞひとのとかくまふし候はんことをば御不審あるべからず候。たゞ如来の誓願にまかせまいらせたまふべく候。とかくの御はからひあるべからず候なり。あなかしこあなかしこ。
  五月五日                               親鸞
 浄信御房
    他力とまふし候は、とかくのはからひなきをまふし候なり。

 (現代語訳)お手紙詳しく拝見しました。
 さて、念仏の教えについてのご不審の中で「信心の一念が発起した時、弥陀の無碍の心光に摂護されますから、つねに浄土に往生できる因が定まるのです」とおっしゃっています。これでよろしいと思います。これでよろしいとは思いますが、みな自分勝手なはからいになってしまっているように思われます。あら不思議よと信じられましたら、煩わしいはからいがあってはなりません。
 またある人が「悟りを願う心が多く、浄土に往生できる因が少ない」と言われているのは、納得いかないことです。悟りを願うと言うのも、浄土に往生できる因と言うのも、同じことです。このようなことはすべてなまじっかなはからいだと思います。仏の智恵をあら不思議と信じられましたら、とかく煩わしいはからいがあってはいけません。人がとかく言われることを不審に思うことはありません。ただ如来の誓願にお任せになっていればいいのです。とかくのはからいのないことです。謹言。
  他力といいますのは、とかくはからいのないことです。


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