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臨終の来迎 [『観無量寿経』精読(その73)]

(6)臨終の来迎

 ここであらためてテレポーテーションとしての往生のイメージについて思いを廻らせたい。往生ということばにはどうしても「移動」という語感がこびりついているということです。講座後の雑談のなかで、浄土はアナザーワールドではないという話は印象的だったが、でもアナザーワールドの方がよっぽど分かりやすいね、と言われた人がいました。言われる通り、「浄土へ往生する」ということばは、アナザーワールドへのテレポーテーションというイメージを喚起し、一旦このイメージに囚われますと、それからなかなか離れられません。
 先に『観経』の顕彰隠密について見てきました。『観経』で説かれている定善・散善の教えは顕の義(外に顕れた教え)であり、それは本願他力の教えという彰の義(内に秘められた教え)へと導き入れるための方便であるということでした。定善・散善と本願他力の顕彰隠密に対応して、往生にも顕の義と彰の義があります。すなわち定善・散善を修めることによる往生はあくまでも方便の往生であり、本願他力による往生が真実の往生ということです。
 前者は「行者命終わらんとする時に、阿弥陀仏、および観世音・大勢至、もろもろの眷属とともに金蓮華を持たしめて、五百の化仏を化作してこの人を来迎したまふ」という形をとります。一方、後者はと言いますと、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)で、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(同、第3通)となります。
 まず考えたいのは、定善・散善による往生(諸行往生)がどうして臨終の来迎という形をとるかということです。親鸞はこの諸行往生の元が第十九願にあることを見抜いていました。そこであらためてこの願をみてみますと、「十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿(いのち)終る時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」とあります。ここにはっきりと「功徳を修して…わが国に生ぜんと欲す」ことと「寿終る時に臨んで」来迎を受けることが結びついています。

タグ:親鸞を読む
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