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『教行信証』「信巻」を読む(その126) ブログトップ

すなはちよく生れて如来の家にあらん [『教行信証』「信巻」を読む(その126)]

(6)すなはちよく生れて如来の家にあらん

先の文のつづきです。

もしつねに諸仏に信奉(しんぶ、信じ奉る)すれば、すなはちよく大供養を興集(こうじゅう)す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もしつねに尊法に信奉すれば、すなはち仏法を聞くに厭足(えんそく、あきあきすること)なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。もしつねに清浄僧に信奉すれば、すなはち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。もし信力を得てよく動くことなければ、すなはち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなはち善知識に親近(しんごん)することを得。すなはち善智識に親近することを得れば、すなはちよく広大の善を修集す。もしよく広大の善を修集すれば、かの人、大因力(仏果をえる因力)を成就す。もし人大因力を成就すれば、すなはち殊勝決定の解(げ)を得(かならず成仏すると思う)。もし殊勝決定の解を得れば、すなはち諸仏のために護念せらる。もし諸仏のために護念せらるれば、すなはちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなはちよく仏の功徳を勤修(ごんしゅ)せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなはちよく生れて如来の家にあらん。もし生れて如来の家にあることを得れば、すなはち善をして巧方便(ぎょうほうべん、巧みな方法)を修行せん(善く功方便を修行せん)。もし善をして巧方便を修行すれば、すなはち信楽の心、清浄なることを得。もし信楽の心、清浄なることを得れば、すなはち増上の最勝心を得。もし増上の最勝心を得れば、すなはちつねに波羅蜜(彼岸に至るための行)を修習せん。もしつねに波羅蜜を修習すれば、すなはちよく魔訶衍(まかえん、マハーヤーナの音訳、大乗)を具足せん。もしよく魔訶衍を具足すれば、すなはちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなはちよく念仏の心、動ぜず。もしよく念仏の心、動ぜざれば、すなはちつねに無量仏を覩見(とけん)せん。もしつねに無量仏を覩見すれば、すなはち如来の体、常住を見ん。もし如来の体、常住を見れば、すなはちよく法の永く不滅なることを知らん。もしよく法の永く不滅なることを知れば、弁才を得、無障礙を得ん。もし弁才無障礙を得れば、すなはちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなはちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなはち堅固の大悲心を得ん。もし堅固の大悲心を得れば、すなはちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなはちよく有為のとが(迷いのあやまち)を捨離せん。もしよく有為のとがを捨離すれば、すなはち憍慢および放逸を離る。もし憍慢および放逸を離るれば、すなはちよく一切衆を兼利(一人残さず利益する)せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなはち生死に処して疲厭(ひえん)なけん」となり。抄出


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