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生死すなはち涅槃なり [「信巻を読む(2)」その63]

(5)生死すなはち涅槃なり

すぐ前のところで「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」という「正信偈」の一節を上げましたが、ここに信心を発することの難しさが遺憾なくあらわれていると言わなければなりません。信心を発するとは「生死すなはち涅槃なりと証知」することに他ならないと言うのですが、この生死の世界がそのままで涅槃の世界であるなどとどのようにして証知することができるでしょう。「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」と言うしかありません。ぼくとしては、しばしばコインの表と裏という譬えを持ち出して、この「生死すなはち涅槃なり」を説明するのですが、さてこれでどこまで納得してもらえることか、はなはだ心もとないと言わざるを得ません。

結局のところ、ある「気づき」があるかどうかというところに行きつきます。それがありさえすれば「生死すなはち涅槃なり」がすんなりと腹に収まる、ある「気づき」。それが「大いなる力により生かされている」という気づきです。

浄土の教えではその「大いなる力」に「本願力」という名が与えられ、さらに「大いなる力」が「こえ」としてわれらのもとに届けられることが「名号」という名で表現されますが、それらはすべて「大いなる力により生かされている」という気づきをあらわすためのメタファーです。そしてその気づきが信心とよばれるのです。この気づきがあったからといって「わが力で生きなければならない」ことはこれまでと何の変わりもありませんが、しかし「わが力で生き」ながら、それがそっくりそのまま「大いなる力で生かされている」と気づいているのです。「わが力で生きよう」とするところに生死の世界がありますが、それがそのまま「大いなる力で生かされている」ところに涅槃の世界が広がります。かくして「生死すなはち涅槃なり」となります。

みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」という善導の有名なことばについてもうひと言。「みづから信じる」ことと、「人を教えて信ぜしむる」ことは別のことではありません、ひとつです。みずから「大いなる力に生かされている」と気づいたとき、もう否応なくその気づきを他人に伝えたくなっています。それは「わがはからい」ではなく、大いなる力自体のはからいです。往相も還相も如来の回向ですから、往相はそのままで還相です。


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